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<title>板橋村だより</title>
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<description>　若き日に蝦夷地の札幌農学校に学び、武蔵の国板橋村に土着した筑紫の国の住人、嘉穂のフーケモンが、帝都東京の四季折々の話題を発信いたしまする。</description>
<language>ja</language>
<pubDate>Mon, 02 Oct 2006 13:25:45 +0900</pubDate>
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<title>艦船（8）－航空母艦赤城（2）</title>
<description>　　　Akagi on trials off the coast of Iyo, 17 June 1927 by Wikipedia.　昭和2年（1927）6月17日、伊予灘にて全力公試運転中の「赤城」　（旧暦　 2月5日）　艦船（7）－航空母艦赤城（1）のつづき　建造当初の「赤城」は最上段飛行甲板190.2m、中段飛行甲板15m、下段飛行甲板55.2mと三段式のユニークな飛行甲板を持っていましたが、その後の航空機の発達に従って飛行甲板の延長が必要となり、昭和13年（1938）に佐世保海軍工廠で一段式249.17×30.5 mの飛行甲板に延長されました。　この時に下二段の飛行甲板は閉鎖式の格納庫甲板に改造されて常用搭載機も66機（補用25機）となり、ボイラーもロ号艦本式重油専焼罐×19に統一、抜本式オールギヤードタービン×8、4軸推進、機関出力133,000馬力、兵装も三年式50口径20cm単装砲6基6門、一〇年式45口径12cm連装高射砲6基12門、九六式25㎜連装機銃14基28門にするなどの近代化改装がほどこされ、総排水量も41,300トン（公試状態）となりました。　ちなみに昭和16年（1941）12月の対米英戦争開戦時における常用搭載機は、零式艦上戦闘機18機、九九式艦上爆撃機18機、九七式艦上攻撃機27機となっていました。　対米英戦争開戦後の「赤城」は、第一航空艦隊（司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将）の旗艦として真珠湾攻撃、ニューブリテン島ラバウル攻撃、オーストラリア西海岸のポート・ダーウィン攻撃、インド洋作戦ではセイロン沖海戦で他の空母の艦載機とともに英国東洋艦隊重巡洋艦「コーンウォール（HMS Cornwall, 56）」 「ドーセットシャー（HMS Dorsetshire, 40）」、空母「ハーミーズ（HMS Hermes, 95）」を撃沈するなどの戦果を残しています。　昭和17年（1942）5月27日0500、南雲忠一中将率いる第一航空戦隊（赤城、加賀）、第二航空戦隊（飛龍、蒼龍）を主力として編成された南雲機動部隊（第一機動艦隊）は広島湾柱島泊地から出撃し、6月5日0100、ミッドウェー島北西240浬（約450Km）の作戦海域に到達しています。　　第一機動艦隊編成　第一航空艦隊　　　　　　　　司令長官　　　　　　南雲忠一中将　　　　　　　　　　　　　　　　　　参謀長　　　　　　　草鹿龍之助	（海兵37期）　　　　　　　　　　　　　　　　　　主席参謀　　　　　　大石　保	　　　　（海兵48期）　　　　　　　　　　　　　　　　　　航空甲参謀　　　　源田　実	　　　　（海兵52期）　　　　　　　　　　　　　　　　　　航空乙参謀　　　　吉岡忠一	　　　　（海兵57期）　　　　　　　　　　　　　　　　　　航海参謀　　　　　雀部利三郎	（海兵51期）　　　　　　　　　　　　　　　　　　水雷参謀　　　　　渋谷龍穉	　　　　（海兵52期）　　　　　　　　　　　　　　　　　　通信参謀　　　　　小野寛次郎	（海兵56期）　　　　　　　　　　　　　　　　　　機関参謀　　　　　坂上五郎	　　　　（機関34期）　　	空襲部隊　　　　第一航空戦隊　		「赤城」　「加賀」（空母）　　　　第二航空戦隊		「飛龍」　「蒼龍」（空母）　　　	支援部隊　　　　第3戦隊第2小隊　	「霧島」　「榛名」（戦艦）　　　　第8戦隊　　　　	　　　　「利根」　「筑摩」（重巡）　　	警戒隊　　　　第10戦隊　		「長良」（軽巡）　　　　第10駆逐隊		「風雲」　「夕雲」　「巻雲」　「秋雲」　　　　第17駆逐隊		「浦風」　「磯風」　「谷風」　「浜風」　　　　第4駆逐隊　　　　　　　「嵐」　 「萩風」　「野分」　「舞風」</description>
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<category>艦船</category>
<pubDate>Sat, 20 Mar 2010 21:22:17 +0900</pubDate>

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<title>艦船（7）－航空母艦赤城（1）</title>
<description>　　Akagi after its launch at Kure, 6 April 1925　by Wikipedia.　大正14年（1925）4月6日、進水後、呉海軍工廠の艤装岸壁で航空母艦に改装中の「赤城」　（旧暦　 1月28日）　明治40年（1907）4月4日、陸軍参謀本部と海軍軍令部の協議により陸海軍統帥部は、「帝國國防方針」、「國防所要兵力量」、「帝國軍用兵綱領」を策定上奏し、元帥府はこれを決議、そして明治天皇の裁可を得ました。　この中で陸軍は想定敵国をロシアと定め、その「國防所要兵力量」の中で陸軍平時25個師団、戦時50個師団と策定する一方、海軍はアメリカを想定敵国と定め、それに対する戦備として艦齢8年未満の戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を基幹戦力とする艦隊整備計画を立てました。　明治40年制定　「帝國國防方針」主旨　1.	国防の本義　　　　　　　　　　　開国進取の国是に従い国権の伸張・国利民福の増進　2.	国防の方針　　　　　　　　　　　攻勢をもって本領とす　3.	想定敵国　　　　　　　　　　　　露国を第１、米、独、仏の諸国これに次ぐ（日英同盟は確実に保持）　4.	兵備の標準　　　　　　　　　　　露・米・独・仏の兵力に対し東亜において攻勢を取り得るを度とす　5.	国防に要する陸上兵力　　　　平時25個師団　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　戦時50個師団（含予備25個）　6.	国防に要する海上兵力　　　　　第1線艦隊　戦艦8、装甲巡8　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　予備隊　艦齢9年～25年　7.	用兵綱領　　　　　　　　　　　　　英国と共同する戦争　　　　　主要作戦　　　　　　　　　　　　　対露：満州・ウスリーへの作戦　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　対米、独、仏：まず敵の海上勢力を撃滅　そして、日本海軍が計画した八八艦隊整備計画は、下表に示されたものでした。　　　</description>
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<category>艦船</category>
<pubDate>Sat, 13 Mar 2010 19:58:05 +0900</pubDate>

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<title>新生代（19）－第四紀（9）－破局噴火</title>
<description>　　Diagram of the Yellowstone Caldera by Wikipedia.　（旧暦　 1月14日）　日本列島では数千年に1回、地球規模では数百年に1回の頻度で文明を滅ぼすような巨大噴火が起きていますが、これを破局噴火（Catastrophic Eruption）とよんでいます。　日本大学文理学部地球システム科学科の高橋教授が著した『破局噴火』（祥伝社新書）によれば、「破局噴火（超巨大噴火）は、いつの日か必ず起こる災害である。もし起これば被害は想像を絶するものであり、人類全体が滅亡の危機に陥るかもしれない。」とのことであります。　う～む！　地球上における人類の存在は、まさに奇跡そのものと云えるかもしれませぬなあ！　米国地質調査所（United States Geological Survey）では、1回の噴火で1000立方キロ以上の岩石と火山灰を噴出する火山を超巨大火山（ supervolcanoe ）と呼んでいるそうですが、この用語はIAVCEI（International Association of Volcanology and Chemistry of the Earth's Interior 、国際火山学及び地球内部化学協会）などの学会ではまだ定義が定まっていないとのことです。で、この破局噴火で噴出したマグマ量を、身近な噴火災害のところから比較していくと、　1.　雲仙普賢岳　　　1990～1995年　　　0.2立方キロ　　　平成3年（1991）6月3日午後4時8分に発生した火砕流では、取材に当たっていた報道関係者16名、火山の写真撮影と映画撮影のパイオニアとして世界的に著名な火山学者であるフランス人のクラフト夫妻（Maurice Krafft、1946～ 1991＆Katia Krafft、1942～1991）とアメリカ地質調査所（United States Geological Survey）の火山学者ハリー・グリッケン（Harry Glicken、1958 ～1991）の3名、警戒中の消防団員12名など合わせて43名の死者行方不明者を出した。　　雲仙岳と東側山麓のラハール（Lahar、火山泥流）跡　2.　セント・ヘレンズ山　　　1980年　　　1.0立方キロ　　　その優美な風貌から「アメリカの富士山」とも呼ばれたワシントン州スカマニア郡にあるセント・ヘレンズ山が、1980年5月18日8時32分、123年ぶりに大噴火を起こし、北側の斜面で大規模な山体崩壊を起こした。また噴出したマグマは大規模な火砕流を発生させ、約600平方キロの森林が火砕流に飲み込まれ焼失した。　　　この噴火により広島型原爆2万7,000個分に相当するエネルギーが放出され、噴出物の総量は1立方キロを超えた。その結果、セント・ヘレンズ山の北側には幅約3km、深さ約800mの巨大な火口が出現し、標高は400mほど減少した。この噴火により57人が死亡もしくは行方不明となった。　　3,000 ft （1 km） steam plume on May 19, 1982, two years after Mount St. Helens major eruption　by Wikipedia.　3.　ピナトゥボ山　　　1991年　　　5.0立方キロ　　　ピナトゥボ山はフィリピンのルソン島西部にある成層火山で、密林が山を覆う目立たない山であったが、1991年6月初旬に約500年ぶりに噴火し、周辺地域では火砕流と火山灰に加えて火山泥流が発生し、数千戸の家屋が倒壊するなど、多大な被害を出した。　　　1991年6月7日のマグマ性噴火からほぼ活動が終焉した9月までの噴出物の総量は約10立方キロ、マグマ量にして約5.0立方キロに相当する。これは大規模な山体崩壊をおこした1980年のセント・ヘレンズ山の約10倍にあたる。　　Die Pinatubo-Caldera mit dem Kratersee im Mai 1992. Der See ist von zahlreichen Fumarolen umgeben　von Wikipedia. 　火口湖を伴うピナトゥボ・カルデラ、1992年5月。火口湖は多数の噴煙に囲まれている。</description>
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<category>新生代</category>
<pubDate>Sat, 27 Feb 2010 22:43:00 +0900</pubDate>

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<title>漢詩（37）－杜牧（3）－阿房宮賦（2）</title>
<description>　　清　袁耀　阿房宫图　広州美術館蔵　（旧暦　11月24日）　　　漢詩（36）－杜牧（2）－阿房宮賦（1）のつづき　妃嬪媵嬙、王子皇孫、辭樓下殿、輦來於秦。朝歌夜絃、為秦宮人。明星熒熒、開妝鏡也。綠雲擾擾、梳曉鬟也。渭流漲膩、棄脂水也。煙斜霧橫、焚椒蘭也。雷霆乍驚、宮車過也。轆轆遠聽、杳不知其所之也。一肌一容、盡態極姘。縵立遠視、而望幸焉。有不得見者、三十六年。　　　妃嬪（ひひん）媵嬙（ようしゃう：女官）、王子皇孫、樓を辭し殿を下りて、輦（れん、輦車に乗る）して秦に來（きた）る。朝（あした）に歌ひ夜に絃して、秦の宮人と為れり。明星の熒熒（けいけい）たるは、妝鏡（化粧の鏡）を開く也。綠雲（宮女たちの豊かな黒髪）の擾擾（ぜうぜう：やわらかなさま）たるは、曉鬟（げうかん：寝起きの乱れ髪）を梳（くしけず）る也。渭流の膩（あぶら）を漲（みなぎ）らすは、脂水を棄つる也。煙斜めに霧橫たはるは、椒蘭（せうらん：香りの良い焚き物）を焚く也。雷霆（らいてい） 乍（たちま）ち驚くは、宮車の過ぐる也。轆轆（ろくろく：ごろごろ）として遠く聽き、杳（やう）として其の之（ゆ）く所を知らざる也。一肌（き）一容、態（たい：媚態）を盡くし姘（けん：美しさ）を極め、縵（ひさ）しく立ち遠くを視て、幸（みゆき：寵愛）を望む。見（まみ）ゆるを得ざる者有り、三十六年。　六國（中国戦国時代末期の齊、楚、燕、韓、魏、趙の六国）の宮廷にいた后妃や女官（嬪、媵、嬙）たち、六王の王子や皇孫たちは、それぞれの国の王宮に別れを告げ、輦車に乗せられて秦の都にやってきた。そして朝晩、歌をうたい琴を奏でて、秦の宮中に奉仕する身となった。　明るい星が瞬くように見えるのは、宮女たちが化粧のために鏡の蓋を開けたもの。　黒い雲が群がり起こるように見えるのは、寝起きの乱れ髪を解かしているため。　清らかな渭水の水面に、ねっとりした脂が浮かび漂うのは、化粧の水を棄てたもの。　煙が流れ霧がたなびくように見えるのは、椒（はじかみ）や蘭（ふじばかま）の香を焚いたため。　雷鳴が突然とどろくのは、皇帝の御車が通りゆく音。ごろごろと次第に遠ざかり、何処にか消えていく。　宮女たちは、肌から身のこなしに到るまで、ありとあらゆる媚態を表し、美しさを窮め尽くして、いつまでも立ちつくし、遠くを眺めて、皇帝の訪れを待ち望む。　しかしそれでも、お目通りのかなわない者がいて、三十六年間にも及んだ。　燕、趙之收藏、韓、魏之經營、齊、楚之精英、幾世幾年、剽掠其人、倚疊如山。一旦不能有、輸來其閒。鼎鐺玉石、金塊珠礫、棄擲邐迤。秦人視之、亦不甚惜。　嗟乎、一人之心、千萬人之心也。秦愛紛奢、人亦念其家。奈何取之盡錙銖、用之如泥沙。使負棟之柱、多於南畝之農夫、架梁之椽、多於機上之工女、釘頭磷磷、多於在庾之粟粒、瓦縫參差、多於周身之帛縷、直欄橫檻、多於九土之城郭、管絃嘔啞、多於市人之言語。使天下之人、不敢言而敢怒。獨夫之心、日益驕固。戍卒叫、函谷舉。楚人一炬、可憐焦土。　　燕、趙之收藏（財宝）、韓、魏之經營（宝物）、齊、楚之精英（選りすぐりの品々）、幾世幾年にして、其の人（たみ）より剽掠（へうりゃく：劫奪）し、倚疊（いでふ：もたせかけ、積み重ねる）して山の如し 。一旦有する能はず、其の閒に輸（いた）し來（きた）る。鼎は鐺（なべ）　玉は石、金は塊（つちくれ）　珠（たま）は礫、棄擲（きてき：棄てる）して邐迤（りい：綿々と連なる）たり。秦人（ひと）之を視るも、亦た甚だしくは惜しまず。　　嗟乎、一人（にん）之心は、千萬人之心也。秦　紛奢（豪華・奢侈）を愛せば、人（たみ）も亦た其の家を念（おも）ふ。奈何ぞ之を取ること錙銖（ししゅ：微量）を盡くして、之を用うること泥沙の如くする。棟（むなぎ）を負ふ之柱をして、南畝（農地）之農夫よりも多く、梁（はり）を架くる之椽（たるき）をして、機上之工女よりも多く、釘頭の磷磷たるをして、 庾（くら）に在る之粟粒よりも多く、瓦縫（がほう：瓦の継ぎ目）の參差（しんし：入り乱れて交錯する）たるをして、周身（全身）之帛縷（はくる：絹の糸筋）よりも多く、直欄橫檻（縦横に連なる手摺り）をして、九土（中国全土）之城郭よりも多く、管絃（音楽）の嘔啞（おうあ：乱雑で騒々しい）たるをして、市人（しじん：市に集まる人）之言語よりも多からしむ。天下之人をして、敢へて言はずして敢へて怒らしむ。獨夫（民心を失った暴君）之心は、日に益（ます）ます驕固（けうこ：驕り頑な）なり。戍卒（じゅそつ：辺境を守る兵卒）叫んで函谷舉がる（函谷関が陥落する）。楚人の一炬に、憐れむ可し焦土たり。　燕や趙が集め貯えた財宝、韓や魏が探し求めた宝物、齊や楚の選りすぐりの品々は、何代もの間、その人民から奪い取って山のように積み重ねていた。　ところが突然、国が滅んで保有できなくなり、阿房宮に運ばれることになった。かくして宝物の鼎は鐺（なべ）同然、美しい玉は石ころ同然、黄金は土くれ同然、真珠は小石同然に見なされ、道ばたに棄てられたものが綿々と連なった。秦の人々はこの有様を見ても、甚だしくは惜しいと思わなかった。　ああ、天子一人の心は、何千何万もの人々の心に深い影響を与える。秦の皇帝が豪奢な暮らしを好めば、人々もまた自分の家を愛して豊にしたいと願う。それなのに、どうしてごくわずかな物までも搾り取って、それを泥や沙のように惜しみなく浪費したのであろうか。　　阿房宮の棟木を背負う柱の数は、田畑で働く農夫よりも多く、梁に渡した垂木の数は、機織りをする女性よりも多く、無数にきらめく釘の頭数は、倉庫に貯える穀物の粒よりも多い。　複雑に入り組んだ屋根瓦の合わせ目の線は、身にまとう衣服の絹の糸筋の数よりも多く、縦横に連なる手摺りの数は、中国全土に築かれた城郭よりも多く、かまびすしい管弦の響きは、市場に集う人々の話し声よりも大きい。　しかも天下の人々を抑圧して、批判を口に出す勇気はなくとも、心の中では怒らせたのだ。　民心を失った暴君始皇帝の心は、日ごとに驕り高ぶってかたくなになっていった。　やがて辺境警備の兵が叛乱の叫び声をあげ、続いて函谷関の守りが破れた。　そして楚の人項羽が放った一本の炬火（たいまつ）で、惜しいことに広大な宮殿は一面の焼け野原に変わってしまった。</description>
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<category>漢詩</category>
<pubDate>Fri, 08 Jan 2010 22:18:54 +0900</pubDate>

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<title>漢詩（36）－杜牧（2）－阿房宮賦（1）</title>
<description>　　清　阿房宮圖　袁耀　乾隆四十五年（1780）作　南京博物院蔵　　（旧暦　11月13日）　阿房宮賦　　　　　杜牧　六王畢、四海一。蜀山兀、阿房出。覆壓三百餘里、隔離天日。驪山北構而西折、直走咸陽。二川溶溶、流入宮牆。五步一樓、十步一閣。廊腰縵迴、簷牙高啄。各抱地勢、鉤心鬭角。盤盤焉、囷囷焉。蜂房水渦、矗不知乎幾千萬落。長橋臥波、未雲何龍。複道行空、不霽何虹。高低冥迷、不知西東。歌臺暖響、春光融融。舞殿冷袖、風雨淒淒。一日之內、一宮之間、而氣候不齊。　六王畢（おわ）りて、四海一なり。蜀山兀（こつ）として、阿房出づ。三百餘里を覆壓（ふうあつ）して、天日を隔離す。驪山　北に構へて西に折れ、直ちに咸陽に走（おもむ）く。二川溶溶として、流れて宮牆に入る。五步に一樓、十步に一閣。廊腰縵く迴りて、簷牙（えんが：軒先に突き出た垂木の端）高く啄（ついば）む。各（おの）おの地勢を抱（いだ）いて、鉤心鬭角（とうかく）せり。盤盤焉（えん）たり、囷囷（きんきん）焉（えん）たり。　蜂房　水渦、矗（ちょく）として幾千萬落なるかを知らず。長橋の波に臥（ぐわ）すは、未だ雲あらざるに何の龍ぞ。複道の空を行くは、霽（は）れざるに何の虹ぞ。高低　冥迷として、西東を知らず。歌臺の暖響は、春光融融たり。舞殿の冷袖は、風雨淒淒たり。一日之內、一宮之間にして、氣候齊（ひと）しからず。　阿房宮（あぼうきゅう）は、秦の始皇帝（Shǐ Huángdì、B.C.259～B.C.210）が始皇26年（B.C.221）に戦国六国の中で最後に残った齊を滅ぼして中国統一を図った後の始皇35年（B.C.212）に、都咸陽の渭水を隔てた南にある庭園、上林苑の中に造営を開始した巨大な宮殿です。　その遺跡は、現在の西安市の西の郊外、阿房宮村一帯に残っています。　三十五年、道を除（はら）ひ、九原より雲陽に抵（いた）る。山を塹（ほ）り谷を堙（うず）め、直に之を通ず。是に於て、始皇以為（おも）へらく、咸陽は人多く、先王之宮廷小なり。吾聞く、周の文王は豐（ほう）に都し、武王は鎬（かう）に都す。豐・鎬之閒は、帝王之都也と。乃ち朝宮を渭南の上林苑中に營作す。先づ前殿を阿房に作る。東西五百步、南北五十丈、上は以て萬人を坐せしむ可く、下は以て五丈の旗を建つ可し。　周馳して閣道を為（つく）り、殿下自り直に南山に抵（いた）る。南山之顚（いただき）を表し以て闕（けつ）と為す。復道を為（つく）り、阿房自り渭を渡り、之を咸陽に屬し、以て天極の閣道の漢（天の川）を絕（わた）り營室（北方玄武七宿の第六宿。距星はペガスス座α星）に抵（いた）るに象（かたど）る。　阿房宮未だ成らず。成らば、更に令名を擇（えら）びて之に名づけんと欲す。宮を阿房に作る。故に天下之を阿房宮と謂ふ。隱宮・徒刑の者七十餘萬人、乃ち分ちて阿房宮を作り、或は麗山を作らしむ。北山の石槨（いしくわく）を發し、乃ち蜀・荊の地の材を寫（うつ）し、皆至る。關中には計るに宮三百、關外には四百餘。是に於て石を東海上の朐界（くかい）の中（うち）に立て、以て秦の東門と為す。因て三萬家を麗邑（りいふ）に、五萬家を雲陽に徙（うつ）し、皆復し、事（つか）はざること十歲。　（史記　秦始皇本紀第六）　始皇35年（B.C.212）、道を開いて、北は九原郡（内蒙古自治区包頭市）から雲陽（陝西省涇陽の北方）に到った。この間、山を削り、谷を埋めて直通させた。　是に於いて始皇帝は思った。「都の咸陽は人口が多く、先代の荘襄王（B.C.249～B.C. 247）が造営された宮廷では小さすぎる。聞くところでは、周の文王（B.C.1152～B.C.1056）は豐（ほう、西安市西南郊外）に都をつくり、武王（B.C.1087 ?～B.C.1043 ?）は鎬（かう、豐の豐河を隔てた対岸）に都を定めた。かくして豐京と鎬京の間は、一帯がつながって帝王の都となったとのことだ」と。　そこで、群臣が参朝する宮殿を渭水の南の上林苑の中に造営した。まず、前殿を阿房村に作った。東西は500歩（約700m）、南北は50丈（約117m）、殿上には1万人を座らせることができ、殿下には5丈（約11.7m）の旗を立てることができた。　各殿舎を通じる渡り廊下を巡らし、宮殿の下から回廊伝いに南山に到ることができた。その南山の嶺に門を作って表とし、中央の道を挟んで闕（けつ：門観）を置いた。　上下二重の高い廊下を造って阿房村から渭水を渡って咸陽の宮殿に連絡させ、天の中宮である北極星が閣道伝いに天の川を渡って營室星（北方玄武七宿の第六宿。距星はペガスス座α星）に到るのを象った。　しかし、阿房の宮殿はまだ完成しなかった。完成したならば、良い名を選んで命名しようとしたのであるが、宮殿を阿房村に造ったので、天下の人々はこれを阿房宮と云ったのである。　宮刑（陰部を切り取る刑）に処せられた者、および徒刑者70万人余を二手に分けて、一方は阿房宮を造らせ、一方は麗山（りざん）を造らせた。　このために、北山の石を発掘し、蜀や荊の地の木材を輸送させたが、それらは皆到着した。　関中の宮殿は300にのぼり、関外では400余りに達した。かくして、石を東海の朐界（くかい：江蘇省朐県）に建てて秦の東門とした。そして、役夫の労を思い、3万戸を麗邑に、5万戸を雲陽（陝西省涇陽の北方）に移住させて、皆の租税を免除し、徭役（無償の強制労働）に使わないこと10年に及んだ。</description>
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<category>漢詩</category>
<pubDate>Mon, 28 Dec 2009 22:15:00 +0900</pubDate>

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<title>おくの細道、いなかの小道（11）－しのぶの里・佐藤庄司が旧跡</title>
<description>　　花見山公園より見る福島市街　（旧暦　10月29日）　早苗とる　手もとや昔しのぶ摺　さて、芭蕉翁一行は、元禄2年（1689）5月2日、当時の堀田家10万石の城下町福島の宿を出て、かはらの左大臣源融の歌ことば「しのぶもぢずり」で名高い信夫郡岡山村山口を目指します。　一　二日　快晴。福島ヲ出ル。町ハヅレ十町程過テ、イガラべ（五十辺）村ハヅレニ川有。川ヲ不越、右ノ方ヘ七、八丁行テ、アブクマ川ヲ船ニテ越ス。岡部ノ渡リト云。ソレヨリ十七、八丁、山ノ方ヘ行テ、谷アヒニモジズリ石アリ。柵フリテ有。草ノ観音堂有。杉檜六、七本有。虎が清水ト云小ク浅キ水有。福島ヨリ東ノ方也。其辺ヲ山口村ト云、ソレヨリ瀬ノウヱヘ出ルニハ、月ノ輪ノ渡リト云テ、岡部渡ヨリ下也。ソレヲ渡レバ十四、五丁ニテ瀬ノウヱ也。山口村ヨリ瀬ノ上ヘ弐里程也。　（曾良旅日記）　陸奥国信夫郡で産出された乱れ模様の摺り染めは、「山繭を紬いで織り、天然染料で後染めをする織物」で、奈良時代初期の頃からの特産品として都で珍重されたそうです。　忍草（Davallia mariesii）の葉を布帛に摺りつけて、もじれ乱れたような模様を染め出したもの、あるいは、ねじれ乱れたような模様のある石に布をあてて摺りこんで染めたものと解説されています。　題しらず　　　　　　　　　　　　　　　　　　かはらの左大臣　陸奥（みちのく）の　しのぶもぢずり　たれゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに　　（古今集　巻十四　恋歌四　724）　第52代嵯峨天皇（在位、809～823）の12男、河原左大臣源融（822～895）は、『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれ、臣籍に下って源姓を賜り、侍従、右衛門督などを歴任して、貞観14年（872）には51歳で従一位左大臣にのぼっています。　正三位行中納言源朝臣融加陸奥出羽按察使。本官如故。　『日本三代實録』　巻八　清和天皇　貞觀六年三月八日甲午　貞観6年（864）3月8日、陸奥、出羽の按察使（あぜち、地方行政を監督する律令の令制に規定のない官職）に任命されますが、実際には陸奥国府である多賀城には赴任していない遙任（目代と呼ばれる代理人を現地へ派遣し、実際には赴任しない）であったとされています。　源融は、その邸宅である六条河原院に因み河原左大臣と称されましたが、その庭園は鴨川の水を引き入れて大きな池を作り、中の島を「籬（まがき）の島」と名付けるなど、奥州塩竃の浦の風景に模した作りで、難波津の北の汐を毎月30石運ばせて藻塩を焼かせ、その風情を楽しんだと伝えられています。　一五一　河原の院に融公の霊住む事　　今は昔、河原の院は融の左大臣の家なり。陸奥の塩竃の形を作りて、潮を汲み寄せて、監を焼かせなど、さまざまのをかしき事を盡して、住み給ひける。（後略）　「宇治拾遺物語　巻一二　一五」　嵯峨の天皇の御宇に。融の大臣陸奥の千賀の塩釜の眺望を聞し召し及ばせ給ひ。この処に塩釜を移し。あの難波の御津の浦よりも。日毎に潮を汲ませ。こゝにて塩を焼かせつゝ。一生御遊の便とし給ふ。然れどもその後は相続して翫（もてあそ）ぶ人もなければ。浦はそのまゝ干汐となつて。地辺に淀む溜水は。雨の残の古き江に。落葉散り浮く松蔭の。月だに澄まで秋風の。音のみ残るばかりなり。されば歌にも。君まさで煙絶えにし塩釜の。うらさびしくも見え渡るかなと。貫之も詠めて候。　能「融」（世阿弥の幽玄能）　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　つらゆき　河原の左のおほいまうちぎみの身まかりてのち、かの家にまかりてありけるに、塩竃といふ所のさまをつくれりけるを見てよめる　　君まさで煙たえにししほがまの　うらさびしくも見えわたるかな　（古今集　巻十四　哀傷歌　852）</description>
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<category>おくの細道、いなかの小道</category>
<pubDate>Tue, 15 Dec 2009 21:42:19 +0900</pubDate>

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<title>数学セミナー（23）－一般相対性理論（9）－重力方程式（5）</title>
<description>　　Karl Schwarzschild （1873～1916） by Wikipedia.　（旧暦　10月 7日）　一葉忌　歌人中島歌子（1841～1903）の歌塾「萩の谷」で歌道、古典を学び、その後小説家半井桃水（1861～ 1926）に師事して小説を学んでわずか1年半の間に「たけくらべ」、「十三夜」、「にごりえ」といった秀作を発表して、25歳で肺結核により死去した小説家樋口一葉の明治29年（1896）の忌日。　数学セミナー（22）－一般相対性理論（8）－重力方程式（4）のつづき　そろそろ準備もでけましたけん、いよいよアインシュタインの重力方程式ば導いてみまっしょ。　ここで、「何で今さらアインシュタインの重力方程式やねん？」との疑問もおありでしょう。　1916年、球対称で自転せず且つ真空な時空を仮定してアインシュタインの重力方程式を初めて解いたのが、ドイツの物理学者、天体物理学者のカール・シュヴァルツシルト（Karl Schwarzschild、 1873～1916）でした。　彼が導き出した特殊解（シュヴァルツシルト解、Schwarzschild metric）は、重力が強く、光さえも抜け出せない時空の領域であるブラックホール（Schwarzes Loch ）の存在を示唆していました。　シュヴァルツシルト解には、その原点r＝0に特異性があり、それがブラックホールであると認識されるようになったのは1960年代のことであるとされています。　つまり、私「嘉穂のフーケモン」は、大それたことに、このブラックホールを示唆するシュヴァルツシルト解を導くために、アインシュタインの重力方程式ば導きよるのですたい。　ほんでは、行きまっしょ！　リーマン曲率テンソルの最初と最後の添字μにつき縮約すると、　　これを、リッチ・テンソル（Ricci tensor）と云います。また、リッチ・テンソル（Ricci tensor）は、対称となります。　　ここで、縮約（summation）とは、下付き添字のひとつを上付き添字のどれかと同じ字に直すと、この添字については和をとることになります。これにより、ほんものの添字がもとのテンソルより二つ少ないテンソルができたことになります。　ビアンキの恒等式は5個の添字を含むので、縮約を2度行ってダミーでない添字をひとつにします。　　　　　　ところが、　　　したがって、　</description>
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<category>数学セミナー</category>
<pubDate>Mon, 23 Nov 2009 11:39:11 +0900</pubDate>

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<title>書（17）－川西美智（1）－日展</title>
<description>　　磯菜つむ　海女の早乙女心せよ　沖ふく風に浪高くなる　わたの原はるかに波をへだて来て　都に出でし月を見るかは　　　（旧暦　 10月4日）　伝統ある福岡県立嘉穂高等学校柔道部の同級生で主将を務めたJR貨物柔道部S師範の書の師範である川西先生が二度目の日展入選を果たされたので、秋の一日、六本木の国立新美術館まで初めて日展の鑑賞に行ってきました。　川西先生は、日展の書部門の常務理事で奈良教育大学教授でもあった池田桂鳳先生に師事されており、漢字仮名交じり書に新たな道筋を模索されているようです。　といっても、川西先生は妙齢の美人で、私ども九州の田舎者とも気さくに付き合っていただける数少ない奇特な女性です。　「日展」は正式名称「日本美術展覧会」（The Japan Fine Arts Exibition）の略称で、その歴史は以下のようになります。　1.	文部省美術展覧会（初期文展）：明治40年（1907）～大正7年（1918）　2.	帝国美術院展覧会（帝展）　　　：大正8年（1919）～昭和10年（1935）　3.	文部省美術展覧会（新文展） 　：昭和11年（1936）～昭和19年（1944）　4.	日本美術展覧会（日展）　　 　　：昭和21年（1946）～　最初期は第1部「日本画」、第2部「西洋画」、第3部「彫刻」の3部制でしたが、昭和2年（1927）から第4部「美術工芸」が加わり、昭和23年（1948）からは第5科「書」が加わって5科制になっています。　また、一昨年の平成19年（2007）から東京での会場を上野の東京都美術館から六本木の国立新美術館に移しています。　さて、日展の書の作品の横には、作者名と共に「新入選」、「入選」、「会友」、「会員」などと記入された札が付けてありました。　「新入選」、「入選」は判るとしても、「会友」と「会員」の違いについて川西先生に尋ねると、「会友」とは公募出品して入選回数が10回以上になった人あるいは特選を1回得た人のことだそうです。　一般公募者＋「入選10回」 又は 「特選1回」　⇒　「会友」　「会員」とは「会友」が更に特選を得ることで次回は「出品委嘱」となり無鑑査出品となりますが、この委嘱者の中から新審査員が選出されます。この新審査員になることが「会員」への仲間入りを示しているそうです。　「会友」＋「特選１回」　⇒　出品委嘱　→　新審査員　⇒　「会員」　更に審査員をもう2回歴任すると、「評議員」への推挙対象となります。　「会員」＋更に審査員をもう2回　⇒　「評議員」　　　さらにさらに、 　「評議員」＋内閣総理大臣賞 ⇒　《日本芸術院賞→日本芸術院会員》　⇒　『常務理事』 　池田桂鳳先生は、日本芸術院賞の中でも特に選ばれたものに贈られる『恩賜賞』を受賞されており、したがって日展常務理事池田桂鳳先生は、どえりゃ～大先生になるのでごわす。　ところで川西先生が何で西行のこの二首の歌を選んだのかについてお聞きしたところ、「西行が海を詠んだ歌は少ないので、生まれ故郷の尾鷲の海辺をイメージにおきながら書いてみました。」とのことでした。　もちろん、「納得のいくまで、200枚以上は書きました。」ということも付け加えておきます。　世をそむきて後修行し侍りけるに、海路にて月を見てよめる　わたの原　はるかに波をへだて來て　都にいでし月を見るかな　　（千載和歌集　圓位法師　十八首　0803）　屏風の絵を人々よみけるに海のきはにをさなきいやしきものゝ有所を　磯なつむ　あまのさをとめ心せよ　沖ふく風に浪高くなる　　（山家集　1182）</description>
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<category>書</category>
<pubDate>Fri, 20 Nov 2009 18:33:43 +0900</pubDate>

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<title>日本（38）－旧帝国陸海軍の核兵器開発（10）</title>
<description>　　Sir Rudolf Ernst Peierls （1907～1995） by Wikipedia.　（旧暦　 9月 10日）　松陰忌　　明治維新の精神的指導者、二十一回猛士、松陰吉田寅次郎の安政6年（1859）10月27日の忌日。安政の大獄に連座し、大老井伊直弼の命により、江戸伝馬町牢屋敷にて斬首された。　今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼（たのみ）なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし。　日本（37）－旧帝国陸海軍の核兵器開発（9）のつづき　イギリスに亡命したユダヤ人の理論物理学者ルドルフ・エルンスト・パイエルス（Rudolf Ernst Peierls、1907～1995）とオットー・フリッシュ （Otto Robert Frisch、1904～1979）は、当時所属していたバーミンガム大学物理学科の主任マーク・オリファント（Marcus Laurence Elwin Oliphant、1901～2000） の助言により、ウラニウム235の核分裂連鎖反応による原子爆弾の可能性を論じた二種類の覚書（The Frisch-Peierls memorandum）を作成しました。　それらの覚書はマーク・オリファントにより、1940年3月19日に防空科学調査委員会（The Committee on the Scientific Survey of Air Defence）の文民議長であったオックスフォードのサー・ヘンリー・ティザード（Sir Henry Thomas Tizard 、1885～1959） へ届けられました。　第一の覚書は、政府職員や軍人向けの平易な内容で原子爆弾の可能性の一般的な見解を述べています。また、第二の覚書は、より詳細に技術的な記述を含む内容になっています。　ところで、第一の覚書は、第2次大戦終了後20年ほど後に英国の作家ロナルド W.クラーク（Ronald William Clark 、 1916～1987）がサー・ヘンリー・ティザードの書類の間から発見したと伝えられています。　Memorandum on the Properties of a Radioactive "Super-bomb"　放射性｢超爆弾｣の特性に関する覚書　The attached detailed report concerns the possibility of constructing a "super-bomb" which utilises the energy stored in atomic nuclei as a source of energy. The energy liberated in the explosion of such a super-bomb is about the same as that produced by the explosion of 1,000 tons of dynamite. This energy is liberated in a small volume, in which it will, for an instant, produce a temperature comparable to that in the interior of the sun. The blast from such an explosion would destroy life in a wide area. The size of this area is difficult to estimate, but it will probably cover the center of a big city.　添付した詳細報告書は､原子核の中に蓄積されたエネルギーをエネルギー源として利用する｢超爆弾｣を作る可能性に関するものである。この超爆弾の爆発によって解放されるエネルギーは、ダイナマイト1,000トンの爆発によって生ずるエネルギーとほぼ同等である。このエネルギーは小さな容量の中で解放され､その中で瞬時に太陽内部と同等の高温を発生する。その爆発からの爆風は、広い範囲で生物を絶滅させるであろう。この範囲の大きさを推定することは難しいが、それは多分大都市の中心部におよぶ。　In addition, some part of the energy set free by the bomb goes to produce radioactive substances, and these will emit very powerful and dangerous radiations. The effects of these radiations is greatest immediately after the explosion, but it decays only gradually and even for days after the explosion any person entering the affected area will be killed.　更に､この爆弾によって解放されたエネルギーの一部は放射性物質を生成し､これらは非常に強力で危険な放射線を放射する。これらの放射線の影響は爆発直後に最大となり､非常に緩やかに崩壊するが、爆発後数日間は影響を受けた地域に立ち入った人は死亡するであろう。　Some of this radioactivity will be carried along with the wind and will spread the contamination; several miles downwind this may kill people.　この放射能の一部は風によって運ばれて、汚染を拡大する。その風下数マイルでは、おそらく人々を死亡させるであろう。　In order to produce such a bomb it is necessary to treat a substantial amount of uranium by a process which will separate from the uranium its light isotope （U235） of which it contains about 0.7 percent. Methods for the separation of such isotopes have recently been developed. They are slow and they have not until now been applied to uranium, whose chemical properties give rise to technical difficulties. But these difficulties are by no means insuperable. We have not sufficient experience with large-scale chemical plant to give a reliable estimate of the cost, but it is certainly not prohibitive.　このような爆弾を製造するには､そうとうな量のウラニウムを処理してその中に約0.7％含まれている軽い同位体（U235）を分離するという課程が必要になる。そのような同位体を分離する幾つかの方法が最近開発された。それらの方法は時間がかかり、今日に至るまでまだウラニウムには適用されていない。ウラニウムの化学的特質が技術的困難を高めている。しかしこれらの困難は決して克服できないものではない。我々は信頼できる経費を概算するに足りる大規模な化学プラントの経験がないが､多分ひどく高いものではないだろう。　It is a property of these super-bombs that there exists a "critical size" of about one pound. A quantity of the separated uranium isotope that exceeds the critical amount is explosive; yet a quantity less than the critical amount is absolutely safe. The bomb would therefore be manufactured in two (or more) parts, each being less than the critical size, and in transport all danger of a premature explosion would be avoided if these parts were kept at a distance of a few inches from each other. The bomb would be provided with a mechanism that brings the two parts together when the bomb is intended to go off. Once the parts are joined to form a block which exceeds the critical amount, the effect of the penetrating radiation always present in the atmosphere will initiate the explosion within a second or so.　これら超爆弾の特質として約1ポンド（454g）の「臨界規模」が存在する。臨界量を超える量の分離されたウラニウム同位体は、爆発する。まだ臨界量を超えない分量ならば、絶対に安全である。従って､この爆弾をそれぞれが臨界規模以下の二つ（又はそれ以上）の部分に分けて作り､輸送に際してはこれらの部分を互いに数インチだけ離しておけば､早まって爆発する危険を防ぐことができる。この爆弾を爆発させるときには、二個の部分を結合する仕組みが取り付けられる。この部分が臨界量を超える一つのブロックを形作るために接合されると、大気中に常に存在する透過性放射線の影響により一秒程度以内に爆発するであろう。　The mechanism which brings the parts of the bomb together must be arranged to work fairly rapidly because of the possibility of the bomb exploding when the critical conditions have just only been reached. In this case the explosion will be far less powerful. It is never possible to exclude this altogether, but one can easily ensure that only, say, one bomb out of 100 will fail in this way, and since in any case the explosion is strong enough to destroy the bomb itself, this point is not serious.　この爆弾の部分を結合させる仕組みは、臨界状態に達したときすぐに爆弾が爆発する可能性があるので､かなり急速に作動するように調整しなければならない。この場合、爆発は非常に弱い。それが起こる可能性は全く排除できないが、百発のうち例えばただ一発がこうした不具合を起こすだろうことは容易に保証できる。いずれにしても､その爆発は爆弾そのものを破壊するのに十分強力であるから､この点は重大ではない。　We do not feel competent to discuss the strategic value of such a bomb, but the following conclusions seem certain:　このような爆弾の戦略的な価値について論じる立場にはないが､下記の結論は信頼できると思われる：</description>
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<category>歴史/日本</category>
<pubDate>Tue, 27 Oct 2009 20:26:33 +0900</pubDate>

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<title>やまとうた（25）－からす羽に　かくたまずさの心地して</title>
<description>　　　（旧暦　 8月29日）　夜に入りて雁を聞く　からす羽に　かくたまずさの心地して　雁なきわたる夕やみのそら　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　西行法師家集　262　　鴉（からす）の真っ黒な羽に墨でかかれている手紙を読むことは難しい。その鴉羽の手紙を受け取るようなおぼつかない気持になる。夕闇の空を雁の群れが鳴き渡ってゆくが、薄暗く、連なり飛ぶ姿が鴉羽の手紙の文字のように見えぬのだから。　この歌を詠んだ西行（1118～1190）は、その歌論書『西行上人談抄』の中で、次のように述べています。　さて歌はいかやうによむべきぞと問ひ申しゝがば、和歌はうるはしく可詠（よむべき）なり。古今集の體を本としてよむべし。中にも雜の部を常に可見（みるべし）。但、古今にもうけられぬ體の歌少々あり。古今の歌なればとて、その體をば詠ずべからず。心にも付きて優におぼえむ其風體の風理をよむべし・・・（中略）　春霞かすみていにし雁がねは　今ぞなくなる秋霧の上に　　　此歌を貫之中宮の御屏風に書きけるを、先づ春霞と書きたりけるを、秋の繪の所には春霞いかゞと申す人ありければ、筆をうちおきて不覺仕り候けりと云ひて、しばしありてみなみな書きたりければ、難じたる人かほあかめて心うげに思ひたりけり。　『西行上人談抄』は、『西公談抄』、『西行日記』、　『蓮阿記』ともよばれ、その弟子であった蓮阿（荒木田満良）が、西行から歌について聞書きしたもので、西行の歌論書となっています。　西行は、「和歌は麗しく詠むもの、古今集の歌風を手本として詠むべきである。その中でも、雑部を常に見るべきである。」と論じています。　雑部は述懐を主とした歌であり、西行の歌は述懐を重んじた姿勢がみられるとされています。　題しらず　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　よみ人しらず　春霞　かすみていにしかりがねは　今ぞなくなる　秋ぎりのうへに　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（古今集　210）　また西行は、古今集に載せられた紀貫之（866?～945）の従兄弟にあたる紀友則（845～907）の歌も意識裡においていたと推察されます。　是定のみこの家の歌合のうた　　　　　　　　　　　　　　　　　　とものり　秋風に　初雁がねぞきこゆなる　たがたまずさを　かけてきつらん　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（古今集　207）　　からす羽の玉章（たまずさ）の故事は、『日本書紀』の敏達天皇元年（572）五月丙辰（へいしん、十五日）の項に記載されています。　高句麗からからすの羽に書かれた表疏（国書）が届きましたが、羽も文字も黒いので、誰も読み解くことができません。ここに、百済王の一族で已に帰化していた王辰爾（わしに）が、飯をふかす蒸気で羽を湿らせ、白い絹布を押し当てて文字を写し取り解読しました。　《欽明天皇卅一年》　（原漢文、嘉穂のフーケモン拙訳）　夏四月（うつき）甲申（こうしん）の朔（ついたち）乙酉（いつゆう）。泊瀬柴籬宮（はつせのしばかきのみや）に幸す。越人（こしびと）江渟臣裙代（えぬのおみのもしろ）京に詣で奏て曰く、「高麗（こま）の使（つかひ）人、風浪に辛苦して、迷（まよひ）て浦津（とまりつ）を失へり。水の任（まま）に漂流（ただよは）せて、忽に岸（ほとり）に到着す。郡司（こおりのつかさ）隠匿す。故に臣、顕（あらは）し奏（まう）す。」 　詔（みことのりし）て曰く、「朕は帝業（きみつき）を承（うけ）て若干年（ととせあまり）。高麗（こま）路（みち）に迷ひ、始（はじめ）て越（こし）の岸（ほとり）に到り、漂溺（ただよひおぼる）に苦むと雖も、尚ほ性命（みいのち）を全（まつたう）す。豈に徽猷（よきのり）廣被して、至（いき）徳の魏（さかり）に魏（おほき）に、仁化（めぐみのみち）傍（あまね）く通ひて、洪（あふる）る恩（めぐみ）蕩（ひろ）く蕩（とをき）に非（あらざ）る者哉（か）。有司（つかさ）宜しく山背國（やましろのくに）相樂郡（さはらのこほり）に於て、館（むろつみ）を浄治（きよめはらひ）て起て、厚く相資（たすけ）養へ。」　第29代欽明天皇31年（570）、夏4月2日。天皇は、泊瀬柴籬宮（はつせのしばかきのみや、奈良県桜井市初瀬）に行幸された。　越（北陸地方）の人、江渟臣裙代（えぬのおみのもしろ）が京に詣で奏上して言うには、「高麗の使者が暴風雨のために港が分からなくなり、漂流してやっとのことで海岸に着きましたが、郡司がこれを報告せずに隠しているので、私がお知らせに参りました」と。　天皇は、「自分は皇位について若干年だが、高麗人が航路に迷い、初めて越（北陸地方）の浜に到着し、漂流に苦しみながらもその命をとりとめた。これは我が政治が広く行き渡り、徳が盛んで、仁があまねく通じ、大恩が果てしないことを示すものではあるまいか。有司（つかさ、朝廷の官僚）は、山背国相楽郡（京都府相良郡山城町）に館（むろつみ）を建て、厚く助けて養生させよ。」と詔（みことのり）した。　しかしこの翌年（572）四月に、欽明天皇が崩御したため、高麗の使者のことは顧みられませんでした。</description>
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<category>やまとうた</category>
<pubDate>Sat, 17 Oct 2009 13:48:21 +0900</pubDate>

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<title>天文（12）－すばる（M45）</title>
<description>　　1885 The Pleiades by symbolist painter Elihu Vedder（1836～1923）, an American symbolist painter, book illustrator, and poet, born in New York City.　（旧暦　 8月 12日）　Job - Chapter 38　31. Canst thou bind the chains of the Pleiades, or loose the bands of Orion?　　なんぢ昴宿（ぼうしゅく；プレアデス）の鏈索（くさり）を結びうるや、參宿（しんしゅく；オリオン）の繋繩（つなぎ）を解きうるや。　（旧約聖書　ヨブ記　38章31節）　中国における二十八宿の一つ昴宿（ぼうしゅく）は、西方白虎七宿の第4宿で、おうし座η星（Alcyone 、2.9等星）を中心に集まる青白い散開星団のことです。　二十八宿とは、角宿（距星はおとめ座α星）を起宿として天球を西から東に不均等分割したもので、天体の位置を表示する経度方向の座標として用いられました。　また、二十八宿の星座は4つの方角の七宿ごとにまとめられ、東方青龍、北方玄武、西方白虎、南方朱雀の四象に分けられました。　二十八宿はそれぞれ西端の比較的明るい星を基準（距星）とし、その距星から東隣の宿の距星までがその宿の赤経差となります。　ちなみに西方白虎七宿は、下記の七つの宿からなりたっています。　1.	奎（けい）　　　　とかきぼし　　　　アンドロメダ座ζ星（距星）　2.	婁（ろう）　　　　たたらぼし　　　　おひつじ座β星　3.	胃（い）　　　　　えきへぼし　　　　おひつじ座35番星　4.	昴（ぼう）　　　　すばるぼし　　　　おうし座17番星　5.	畢（ひつ）　　　　あめふりぼし　　　　おうし座ε星　6.	觜（し）　　　　　とろきぼし　　　　オリオン座λ星　7.	參（しん）　　　　からすきぼし　　　　オリオン座δ星　昴宿は西洋ではプレアデス星団（Pleiades）と呼ばれ、ギリシア神話の中の両腕と頭で天の蒼穹を支える巨人アトラース（Atlas）と海流神オーケアノス（Oceanus）の娘プレーイオネー（Pleione）の間に生まれたプレイアデス7人姉妹に由来しています。　1.　Asterope（アステロペー）　　The name Asterope or Sterope is shared by two stars, 21 Tauri and 22 Tauri, in the constellation Taurus. They are separated by 0.04° on the sky and are both members of the Pleiades open cluster and approximately 440 light years from Earth.　　　　アステロペー（あるいはステロペー）は、おうし座の21番星と22番星の2つの星からなり、その赤経差は0.04°で、いずれもプレアデス散開星団の一員。地球からの距離はおおよそ440光年。　2.　Merope（メロペー）　　It is approximately 440 light years from Earth. Merope is a blue-white B-type subgiant with a mean apparent magnitude of + 4.14. It has a luminosity of 630 times that of the Sun and a surface temperature of 14,000 kelvin. Merope's mass is roughly 4.5 solar masses and has a radius more than 4 times as great as the Sun's. It is classified as a Beta Cephei type variable star and its brightness varies by 0.01 magnitudes.　　地球からの距離はおおよそ440光年。メロペーは、見かけの平均等級+ 4.14の青白いB型（表面温度10,000～29,000K、ただしK = C + 273.15）準巨星。太陽の630倍の光度をもち、表面温度は14,000 K。質量は太陽質量の約4.5倍、半径は太陽半径の4倍以上。ケフェウス座β型変光星（Beta Cephei type variable star）に分類され、明るさは0.01等級変動する。　3.　Electra（エーレクトラー）　　Electra is a blue-white giant star in the constellation of Taurus. The star has an apparent brightness of 3.72, the third brightest of the stars in the group. Electra belongs to the spectral class B6 IIIe and is approximately 600 light years from the Sun. Electra is one of the four Pleiades stars that is classed as a giant; one that is starting to expand as the internal hydrogen fuel in the core is exhausted.　　　エーレクトラーは、おうし座の青白い巨星。見かけの等級+ 3.72のグループ内で3番目の明るさの星。スペクトル型B6 IIIeに属し、地球からの距離はおおよそ600光年。エーレクトラーは、中心核の水素燃料が尽きると膨張を始める巨星として分類される4つのプレアデスの中の一つ。　4.　Maia（マイア）　　Maia is the third brightest star in the Pleiades open star cluster. It is a blue giant of spectral type B8 III, and a mercury-manganese star. The visual magnitude is + 3.86, requiring darker skies to be seen.　　　マイアは、プレアデス散開星団の中で3番目に明るい星。スペクトル型B8 IIIに分類される青い巨星で、水銀－マンガン星である。視等級は+ 3.86で、肉眼で見るには暗い空が必要。（地球からの距離は約360光年）　5.　Taygeta（ターユゲテー）　　Taygeta is a triple star system in the constellation Taurus. It is approximately 440 light years　from Earth.The primary component, Taygeta A, is a blue-white B-type subgiant with an apparent magnitude of +4.30. It is a spectroscopic binary, whose component stars have magnitudes of +4.6 and +6.1. They are separated by 0.012 arcseconds and complete one orbit every 1313 days. 　　ターユゲテーは、おうし座の3重星で、地球からの距離はおおよそ440光年。主な構成要素であるTaygeta  Aは、見かけの等級+ 4.30の青白いB型（表面温度10,000～29,000K、ただしK = C + 273.15）準巨星。等級 + 4.6と等級 + 6.1をもつ星から構成される分光連星（spectroscopic binary、2個の星として分離して見分けることができない場合でも、スペクトル線にドップラー偏移が見られることで連星であると分かる）である。連星は0.012の秒角度で隔てられ、1,313日の周期を持つ。　6.　ケライノー（Celaeno）　　16 Tauri is a blue-white B-type subgiant with an apparent magnitude of +5.45. It is approximately 440 light years from Earth.　　おうし座16番星は、見かけの等級+5.45の青白いB型（表面温度10,000～29,000K、ただしK = C + 273.15）準巨星。地球からの距離はおおよそ440光年。　7.　アルキュオネー（Alcyone）　 　　Alcyone is the brightest star in the Pleiades open cluster, which is a young cluster, aged at less than 50 million years. Alcyone is approximately 400 light years from Earth.　　　アルキュオネーは年齢5,000万年以下の若い集団であるプレアデス散開星団の中でも最も明るい星（等級2.86）で、地球からの距離はおおよそ400光年。</description>
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<category>天文</category>
<pubDate>Wed, 30 Sep 2009 22:12:26 +0900</pubDate>

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<title>漢詩（35）－頼山陽（2）－蒙古來</title>
<description>　　The samurai Suenaga facing Mongol arrows and bombs　by Wikipedia.　（旧暦　 7月5日）　蒙古來　　頼山陽　筑海颶氣連天黑　　　　　　　筑海（玄界灘）の颶氣（ぐき；暴風）　　天に連なりて黑し　蔽海而來者何賊　　　　　　　海を蔽ひて來る者は　何（いか）なる賊ぞ　蒙古來　來自北　　　　　 　　蒙古來る　　北自り來たる　東西次第期呑食　　　　　　　東西次第に　　呑食を期す　嚇得趙家老寡婦　　　　　　　嚇（おど）し得たり趙家（南宋の朝廷）の　　老寡婦を　持此來擬男兒國　　　　　　　此れを持して來り擬（ぎ）す　　男兒の國　相模太郞膽如甕　　　　　　　相模太郞（八代執権北条時宗）　　膽（たん；肝）　甕（かめ）の如し　防海將士人各力　　　　　　　防海の將士　　人　各ゝ（おのおの）力（つと）む　蒙古來　吾不怖　　　　　 　　蒙古來る　　吾は怖れず　吾怖關東令如山　　　　　　　吾は怖る　　關東（鎌倉幕府の）の令　山の如きを　直前斫賊不許顧　　　　　　　直（ただち）に　前（すす）みて　賊を斫（き）り　　顧るを許さず　倒吾檣　登虜艦　　　　　 　　吾が檣（ほばしら）を倒して　　虜艦に登り　擒虜將　吾軍喊　　　　　　 　虜將を擒（とら）へて　　吾が軍　喊（さけ）ぶ　可恨東風一驅附大濤　　　　恨む可し　　東風　一驅して大濤に附し　不使羶血盡膏日本刀　　　　羶血（せんけつ；生臭い血）をして　　盡く日本刀に膏（ちぬら）せしめざるを　江戸後期の文人で陽明学者でもあった山陽頼襄（らいのぼる、1780～1832）は、49歳の文政11年（1828）12月、20日あまりの日数をもって国史に題材をとった樂府体（漢詩の一形式で、古体詩の一種）の詩66曲を作り、『日本樂府』と名付けました。　この「蒙古來」は、その第35曲に載せられていますが、最初に製作したのは18、9歳の江戸遊学中の時でした。　「肥に椿寿あり、筑に南冥あり」と呼ばれ、肥後の村井琴山（1733～1815）と並び称された筑前博多の徂徠学派の重鎮亀井南冥（1743～1814）は、豪傑で人を許さない人でありましたが、この詩にはいたく敬服し、塾の壁に掲げて塾生と供に日夜愛誦したと伝えられています。　またこの詩は、南宋末期の忠臣、丞相信國公文天祥（1236～1282）の「正氣の歌」や江戸末期の水戸藩の藤田東湖（1806～1855）の「正氣の歌」とともに、幕末の志士に愛誦されています。　明の崇禎11年（1638）、中国江蘇省蘇州にある承天寺の古井戸を浚（さら）ったときに、寺の僧がひとつの鐵函（てつばこ）を発見しました。　その鐵函には錫匣（すずばこ）がはいっており、まわりに石灰が詰められ、さらに錫匣のなかには漆が塗られていました。　内緘（内側の封印）には、　　大宋弧臣鄭思肖百拝封とあり、外緘（外側の封印）には、　　大宋世界無窮無極　　大宋鉄函経　　徳祐九年佛生日封とありました。　「徳祐（とくゆう）」は南宋恭宗（きょうそう）の元号で、実際は南宋が滅亡したため2年で終わり、徳祐が九年になるのは1283年のことで、元の至元20年にあたります。　この日付が本物ならば、鐵函は355年間も井戸の中に隠されていたことになります。　錫匣（すずばこ）の中味は、「心史」という激烈な反モンゴル文書でした。　蒙古支配下にあっては口にできないことを文章にして井戸に沈め、後世の人に語り伝えようとしたものでした。　この「心史」については、昔から、本物説と贋作説があり、清代の文学者袁枚（えんばい）（随園先生1716〜1797）は贋作説を、日本の京都帝国大学東洋史学の桑原隲蔵（じつぞう）博士（1870〜1931）は本物説を唱えました。　「心史」を著し封印した鄭思肖（ていししょう）（1239〜1316）は、福州連江（福建省）の人、始め南宋に仕えましたが元軍の南下で辞し、南宋滅亡後は改名して宋の遺臣を以って任じました。　宋の皇室の姓「趙」から「走」を抜いて「肖」だけ残していますが、「趙氏の宋朝を思う」という意図が込められていました。</description>
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<category>漢詩</category>
<pubDate>Mon, 24 Aug 2009 18:04:50 +0900</pubDate>

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<title>陶磁器（11）－青瓷盤口鳳耳瓶（南宋/龍泉窯）</title>
<description>　　青瓷盤口鳳耳瓶（南宋/龍泉窯）　（旧暦　 6月22日）　龍泉窯（りゅうせんよう）が陶磁の世界に台頭してきたのは、北宋（960～1127）の後期とされています。　もともと民窯として越州窯（えっしゅうよう；漢代から唐・五代にかけて良質の青磁を焼いた窯で、浙江省慈渓県の上林湖周辺一帯に分布する）のながれをくみ生活雑器を製造して販路を拡大していましたが、南宋（1127～1279）が紹興8年（1138）、正式に臨安府（浙江省杭州）を都と定めて移転してきたために、朝廷から直接注文が来るようになり、その後諸外国にも多数輸出されるようになりました。　元の至治3年（1323）、寧波（浙江省）から博多に向かう途中に朝鮮半島西南海上にある道徳島沖で遭難、沈没した大型交易船が1976年に発掘され（新安沈没船）、約1万点にも及ぶ龍泉窯青磁が引き上げられていますが、龍泉窯青磁が南宋期だけではなく元代にも製造されていたことの証拠にもなっています。　龍泉窯の釉薬の色は青緑色を帯び、高台の素地は赤く焦げることが多く、また装飾では、蓮弁は先が丸くなり、各弁は櫛目で空間を埋める略体描法が目立つという特色があります。　梅子青（ばいしせい）、葱翠青（そうすいせい）と呼ばれる龍泉窯の青磁の色は、古来から中国で尊ばれてきた古玉に例えられています。　南宋の蒋祈（生没年不明）の表した世界最古の陶磁器生産の専門書『陶記』によると、宋代の定窯の「紅磁」、景徳鎮窯の「饒玉」（饒州景徳鎮で焼かれた玉のごとき白磁）、龍泉窯の「青秘」を宋磁の三絶としていますが、この青秘こそが日本において珍重される「砧青磁」とよばれる澄んだ青みをたたえた青磁をさしているものと考えられています　この砧青磁の色の秘密は釉薬にあります。　青磁は鉄の呈色であり、釉に鉄分を含んだ雲母が混ざっていて、酸欠状態で窯をたくと酸化鉄が還元されて微妙な青を発色させ、また、長石の含有量が多いために焼成によってできる細かい気泡が光を乱反射させて、深みのある落ち着いた色合いをつくるのだと云われています。　碧玉に近い気韻縹渺（きいんひょうびょう）たる釉色は、宋代官窯青磁とともに中国青磁史に残る卓越した存在として、今日まで不動の評価を保っています。　さて、砧青磁の語源は、ある鯱耳（しゃちみみ）の花生（はないけ）にヒビがあり、これを砧（きぬた；布を槌で打って柔らかくし、つやを出すのに用いる木または石の台）を打つ響きに因んで利休が名付けたとする説、東山慈照院にあった花生（はないけ）の形が絹を打つ砧（きぬた）に似ていたという説などがあるようです。　この龍泉窯の青磁は時代によって呼び名が変遷し、大別して南宋期のものを「砧青磁」、元末明初期のものを「天竜寺青磁」、明末期のものを「七官青磁」と呼び分けています。　中国元末から明初にかけて龍泉窯でつくられた青磁は、大量生産による原料の質の低下に伴い、釉色が黄味のある沈んだ青緑色を呈し、従来の砧青磁とは様相を異にしました。　花瓶や香炉といった大作が多く、室町初期に足利尊氏が京都嵯峨に天竜寺を建立する際に資金を集める手段として元（1271～1368）との交易を企てて天竜寺船を造り、この手の青磁を多く輸入したので船名に因んで名付けたとする説や生涯にわたり、夢窓国師・正覚国師・心宗国師・普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師と7度にわたり国師号を歴代天皇から賜与され、七朝帝師とも称される臨済宗の禅僧夢窓国師（1275～1351）が天龍寺に伝えたといわれる浮牡丹手の香炉がある事から、この手の色合いのものを寺名に因んで名付けたとする説等も知られています。　また、明代後期に龍泉窯を中心として焼かれた青磁は「七官（しちかん）青磁」と呼ばれ、透明性のつよい淡い翠青色を呈し、概して貫入があるのが特徴とさています。彫塑的な技法が多くみられ、陰刻・陽刻・押型などが用いられましたが、名の由来は明朝の七官（しちかん）という者が将来したとも、明朝の七品官の役人が日本に伝えたからとも言われています。　ところでこの龍泉窯は浙江省南西部、福建省に接する武威山系の山間部に位置する龍泉県に窯が集中し、大窯、金村、渓口、王湖、安福、安仁口、梧桐口、周垟、王庄、道太、小白岸、楊梅嶺、王石坑、坳頭、新亭、岱根など二十数カ所の窯が知られています。　龍泉窯とはこれら諸窯の総称ですが、その他にも麗水県、雲和県、遂昌県、永嘉県にも窯が分布し、1956年から1961年にかけて浙江省文物管理委員会によって行われた分布調査によれば、浙江省南部から東海岸にかけての広大な地域に同一系統の窯が分布していることがわかり、これらも広義の龍泉窯とよんでいる学者もいるそうです。　南宋期（1127～1279）の頃から東西貿易が盛んになり、南宋は金銀の流出を恐れて絹と陶磁器の輸出しか許しませんでした。その結果、龍泉窯は中国を代表する交易品として当時の世界に行き渡り、「CHINA」の名声を広めました。　龍泉の地の窯は互いに技術を競って隆盛を極めましたが、時代が下るに付けて「青花」などの染め付けの陶磁器がもてはやされ、明代には景徳鎮官窯が設けられて、龍泉窯は廃れて行きました。　故宮博物院に残る龍泉窯の磁器は、康煕51年（1712）の銘文のあるものを最後とするようです。</description>
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<category>陶磁器</category>
<pubDate>Wed, 12 Aug 2009 13:10:10 +0900</pubDate>

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<title>板橋村ゆかりの人々（9）－白蓮柳原燁子</title>
<description>　　白蓮失踪事件を大々的に報じた東京朝日新聞大正10年10月22日朝刊社会面　　（旧暦　 6月16日）　広島平和記念日　昭和20年（1945）年8月6日午前8時15分、アメリカ陸軍航空隊第509混成部隊第393爆撃戦隊所属のB-29長距離通常爆撃機「エノラ・ゲイ」が、広島市上空31,600ft（9,632m）で世界初のウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」を投下した日。爆心地における約4,000℃の熱線と350万パスカルに達した衝撃波（1平方メートルあたりの加重35トン、風速440m/s以上）によって市街は壊滅し、約14万人の死者とその後原爆症等で亡くなった人を含めると、犠牲者は25万人以上にのぼる。　ひるの夢　あかつきの夢　夜の夢　さめての夢に　命細りぬ　　　　　　　燁子（あきこ）は二月二十二日の夜亡くなりました。老衰でした。八十一歳ですから、まあ天寿をまっとうしたものと思っています。私としてもこの四十六年間、燁子をそばでサポートしてやることができ、燁子も自分の人生を一応卒業できたという感じで、淋しいながらも私は満足しています。最後は痛みも苦しみもなくて、木が枯れるようにして亡くなりました。　後略　宮崎龍介　『柳原白蓮との半世紀』　いつしかに　八十とせ生きてつかの間の　露の命のことはりを知る　　白蓮柳原燁子（1885～1967）は、明治18年、伯爵柳原前光（さきみつ、1850～1894）の次女として、東京に生まれています。　柳原家は、藤原北家の支流日野家の流れを汲む日野家第17代当主で後伏見上皇（1288～1336）の院近臣であった正二位権大納言日野俊光（1260～1326）の四男日野資明（1297～1353）を祖とし、京都十三名家の一つで、名家の家格を有する公家でした。　父の柳原前光は、資性剛毅にして事を処することに適し、西園寺公望とともに少壮公家中の逸材と言われ其の名を知られていました。　戊辰戦争時には、東海道鎮撫副総督、海陸軍大総督参謀を歴任し、明治維新後は外務省に入省して外務大丞として日清修交条規締結に活躍、その後清国公使、元老院議官、駐露公使、元老院議長、枢密顧問官等を歴任して皇室典範の制定に参与し、明治17年（1884）7月7日には伯爵に叙されています。　また、明治天皇の典侍（宮中における女官の最上位）で大正天皇の生母でもある二位局柳原愛子（なるこ、1859～1943）は、前光の妹という名門でもありました。　一方、母の奥津りょうは柳橋の芸妓から前光の妾のひとりとなりましたが、その父親は、幕末に外国奉行および神奈川奉行を務め、万延元年（1860）に日米修好通商条約批准書交換使節正使として渡米した新見正興（しんみ まさおき、1822～1869）という幕臣でした。　新見正興は端麗なる容姿によって幕臣の中でもひときわ異彩を放っていたと云われていますが、明治維新直後に早世し、一家は没落したようです。　燁子は16歳の明治33年（1900）、かねてから養女となっていた柳原家の分家である北小路子爵家の長男資武と結婚しますが、その結婚は幸せなものではなかったようです。　明治34年（1901）に17歳で一子北小路功光（1901～1989）を授かるも、資武とは夫婦関係に支障をきたし、明治38年（1905）、21歳で破婚、義母初子の隠居所に幽閉されます。　その後、燁子は東洋英和学校に入学して寄宿舎生活を送るなか、歌人、国文学者の佐佐木信綱（1872～1963）が主宰する短歌結社「竹柏会」に入会し、歌に情熱を傾けます。　明治44年（1911）、27歳の時、炭坑王として財をなし、政友会の代議士として2期6年間在任した経歴を持つ伊藤鉱業社長伊藤伝右衛門（1861～1947）と再婚させられます。　この結婚については、燁子の兄義光の貴族院議員出馬資金調達と伝右衛門側の名門との結びつきを求める利害が一致したことによる政略結婚色が強いものであったとされています。</description>
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<category>板橋村ゆかりの人々</category>
<pubDate>Thu, 06 Aug 2009 19:54:12 +0900</pubDate>

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<title>物語（10）－平家物語（3）－敦盛最後の事</title>
<description>　　史蹟　生田の森　（旧暦　 6月 7日）　乱歩忌　大正期から昭和期にかけて主に推理小説の分野で活躍し、怪人二十面相 （『少年倶楽部』1936年1月～12月）や少年探偵団 （『少年倶楽部』1937年1月～12月）などで人気のあった小説家、推理作家、江戸川乱歩（本名；平井太郎）の昭和40年（1965）の忌日。　津國（つのくに）の大輪田泊（いわゆる神戸市）に下向したおり、宿の近くに生田の社（やしろ）があり、早朝に境内を散策すると、本殿の背後には史蹟生田の森、謡曲「生田敦盛」にまつわる案内などもあって、なかなか風情がありました。　名所歌奉りける時　　　　　　　　　　　前中納言定家　秋とたに　吹あへぬ風に色かはる　生田の杜の露の下草　（248）　続後撰集　巻第五　秋歌上　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　後鳥羽院　月残る　生田の森に秋ふけて　夜寒（よさむ）の衣　夜半（よは）にうつなり　（186）　仙洞句題五十首（建仁元年仙洞五十首）　題しらず　　　　　　　　　　　　　　　　　順徳院　秋風に　またこそとはめ津の国の　生田の森の春のあけぼの　（1501）　続古今集　巻十七　雑上　歌枕として知られ、かつては広大な森だった生田の森も、現在は生田神社の境内にわずかにその面影が残されています。　寿永3年（1184年）2月7日より始まった一ノ谷の戦いにおいて平氏は、東の生田口から西の塩屋口までの三里以上にのぼる長大な防備陣地を構築し、　1.	生田口（生田川に面した東城戸）　平氏側主力 	　　新中納言知盛（1152～1185）　入道相国最愛の息子（『玉葉』安元2年12月5日条）とも呼ばれた清盛の四男 	　　三位中将重衡（1157～1185）　清盛の五男　2.	塩屋口（塩屋川に面した西城戸） 	　　薩摩守忠度（1144～1184）　　清盛の父、平忠盛の六男　3.	夢野口（山の手） 	　　越前三位通盛（1153～1184）　清盛の異母弟教盛の嫡男 	　　教経（1160～1185）　清盛の異母弟教盛の次男　の三ヵ所の防備を固めて激しく抵抗し、源氏側は容易には突破できませんでした。　この生田の森周辺も、一ノ谷の戦いの激戦地だったそうですが、いまはそのよすがもありません。　さて、生田神社の境内には、謡曲「生田敦盛」にまつわる案内があります。　法然上人に賀茂参詣の時に松の下で拾われて十歳まで育てられた少年が、ある時上人の説法の折にそのことを物語られた聴衆の中から母親が名乗り出て、父が無官の大夫平敦盛だと知らされます。　そして、その少年が夢でもいいからひと目父に会いたいと願い、上人の従者と供に賀茂明神に祈願すると、津の國生田の森へ下るよう夢で告げられます。　かやうに候者は、黒谷の法然上人に仕へ申す者にて候。さてもこれに渡り候人は、上人加茂へ御詣りの時、下り松の下に、さも美しき男子の二歳ばかりなるを、手箱の蓋に入れ尋常に拵へ捨て置きて候を御覧じて、上人不便に思し召され、抱かせ帰りさまざまに、育て給ひて候程に、はや十歳に餘り給ひて候。父母のなきことを悲しみ給ひ候程に、説法の後この事を御物語り候へば、聴衆の中より若き女性立ち出で、わが子にて候由申され候ほどに、ひそかに御尋ね候へば、一年一の谷にて討たれ給ひし無官の大夫敦盛の、わすれがたみにて候由申され候へば、この事を聞き及び、父御に逢ひましまさぬことを嘆き給ひ、御命も危ふく見えさせ給ひ候ほどに、加茂の明神へ一七日日参させ申し、夢になりとも父の御姿を見せ給へと御祈誓候。　今日満参にて候間、御供申し、唯今加茂の明神へ参り候。　やうやう急ぎ候ほどにこれははや、加茂の明神にて候。　御心静かに御祈念候へ。　山陰の加茂の宮居を立ち出でて、加茂の宮居を立ち出でて、急ぐ行方は山崎や、霧立ちわたる水無瀬川、風も身にしむ旅衣、秋は来にけり昨日だに、訪はんと思ひし津の國の、生田の森に着きにけり、生田の森に着きにけり。　生田の森へ赴いた少年の前に花やかな甲冑を身につけた若武者敦盛の霊が現れ、一ノ谷での合戦の様子を語りますが、やがて生存中に戦った相手を混沌の中に見出して、また戦いを始め、それが常にくり返されて安まることがないと云う修羅道の苦しみを受け、弔いを頼み夜明けとともに消え失せてしまいます。</description>
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<category>物語</category>
<pubDate>Tue, 28 Jul 2009 16:36:06 +0900</pubDate>

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<title>歳時記（19）−夏（6）−summer eve</title>
<description>　　The climactic assassination of Caesar by wikipedia. 　シーザー暗殺のクライマックスシーン　　（旧暦　 6月 1日）　　　　　　　　　　　　　　As the ample moon,　In the deep stillness of a summer even　Rising behind a thick and lofty grove,　Burns, like an unconsuming fire of light,　In the green trees; and, kindling on all sides　Their leafy umbrage, turns the dusky veil　Into a substance glorious as her own,　Yea, with her own incorporated, by power　Capacious and serene.　－W.Wordsworth : The Excursion, 1062 - 70　夏の夕べの深い静寂の中に　こんもりと高い木立の向こうから昇る大きな月が　燃え尽きることの無い光の炎のように　緑の樹々の間で燃える、そして　四方のうっそうたる木の葉を輝かし、薄暗い被いを　自分のような栄光の存在に変える。　そうだ、広大な清らかな力で自身に合体化してしまう。　－ウィリアム・ワーズワース　：　小旅行より　（1062～1070）　　嘉穂のフーケモン　拙訳　あつい日差しが西に沈み、夏の夕べは美しく、精神的な安らぎを与えてくれます。　夏の夕べの快適でくつろいだ気分は、シェイクスピアの悲劇　『The Tragedy of Julius Caesar 』　の中のAntonyのCaesar追悼演説の中にも出てきます。　ANTONY　If you have tears, prepare to shed them now.　You all do know this mantle: I remember　The first time ever Caesar put it on;　'Twas on a summer's evening, in his tent,　That day he overcame the Nervii:　Act Ⅲ, Sceneⅱ: The Forum.　178～182　諸君は何れも此の外套ご存知であろう。　予はシーザーが初めて之を着用した日を　憶えている、それは或夏の夕方、勁敵（けいてき）　ナーヸア族を征伐して大勝利を得た　その日陣営中で被たのであった。　（坪内逍遙　訳）</description>
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<category>歳時記</category>
<pubDate>Tue, 21 Jul 2009 22:40:51 +0900</pubDate>

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<title>史記列傳（9）－伍子胥列傳第六（2）</title>
<description>　　春秋諸侯　Urbanisation during the Spring and Autumn period.　　（旧暦閏　5月21日）　艸心忌　歌人吉野秀雄の昭和42年（1967）の忌日。 結核を患い慶応大学を中退するも秋艸道人會津八一（1881～1956）に師事し、生涯結核と闘いながら作歌をつづけ、昭和34年「吉野秀雄歌集」で読売文学賞、42年迢空賞、43年「含紅集」で芸術選奨を受賞した。　師会津八一が名付けた自宅「艸心洞」から「艸心忌」と呼ばれる。　「もしも自分に歌がなく、自分の歌が自分の精神を昂揚することがなかったならば、どうして自分に今日の存在があったらうか。」との感慨を述べるように、妻はつ子を戦時中に亡くし、結核と闘いながら相聞歌人として全精力を歌につぎ込んだという。　今生の　つひのわかれを告げあひぬ　うつろに迫る時のしづもり （寒蝉集）　ひしがれて　あいろもわかず堕地獄の　やぶれかぶれに五体震はす　真命の　極みに堪へてししむらを　敢てゆだねしわぎも子あはれ　史記列傳（8）－伍子胥列傳第六（1）のつづき　春秋時代の第7代呉王夫差（?～B.C.473）は、宿敵越王勾践（? ～B.C.465）によって討たれた父闔閭（?～B.C.496）の仇を討つため、兵法の大家孫武と伍子胥の補佐を受けて国力を充実させ、呉は一時は並ぶ者なき強国となります。　中原への進出を図る呉王夫差は、機会あるたびに越を討つように進言する伍子胥を疎んじはじめ、宰相伯嚭（はくひ、?～B.C.473）の讒言もあり、ついには名剣の「屬鏤の劒」を賜しめて、伍子胥に自害を命じます。　伍子胥天を仰（あふ）いで嘆じて曰く、嗟乎、讒臣嚭（ひ）、亂を為す。王、乃ち反つて我を誅す。我、若（なんぢ）の父をして霸たらしむ。若（なんぢ）未だ立たざる時より、諸公子立つを爭ふ。我、死を以て之を先王に爭ふ。幾（ほと）んど立つを得ざらんとす。若（なんぢ）、既に立つを得るや、吳國を分かちて我に予（あた）へんと欲す。我、顧つて敢て望まず。然るに今、若（なんぢ）、諛臣の言を聽き、以て長者を殺すと。　乃ち其の舍人に告げて曰く、必ず吾が墓上に樹（う）うるに梓（し）を以てせよ。以て器を為（つく）るべからしめん。而うして吾が眼（まなこ）を抉（ゑぐ）り、吳の東門の上に縣けよ。以て越の寇の入りて吳を滅ぼすを觀（み）ん、と。乃ち自剄して死す。吳王之を聞きて大いに怒り、乃ち子胥の尸（しかばね）を取り、盛るに鴟夷（しい、馬の革で作った袋）の革を以てし、之を江中に浮ぶ。吳人、之を憐み、為に祠を江上に立つ。因りて命（なづ）けて胥山（しよざん）と曰ふ。　私の墓の上に必ず梓を植えよ。後に呉が滅びた時に棺桶を作ることができるように。そして、私の眼をえぐりて、呉の東門の上に懸けておけ。仇敵越が攻め入って呉を滅ぼすのを見られるように。</description>
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<category>史記列傅</category>
<pubDate>Mon, 13 Jul 2009 23:44:00 +0900</pubDate>

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<title>おくの細道、いなかの小道（10）－あさか山</title>
<description>　　『画図百鬼夜行』（安永5年、1776）より「黒塚」　鳥山石燕（1712～1788）　（旧暦閏　5月18日）　相楽等躬宅に8日間にわたって滞在した芭蕉翁一行は、元禄2年4月29日、等躬宅を出立して、堀田氏10万石の城下町福島へ向かいます。　途中、二本松領郡山に宿泊し、翌日、等躬宅より20㎞ばかり、檜皮（ひはだ、日和田）の宿を過ぎると歌枕で名高い安積山に到ります。　一　五月朔日　天気快晴。日出ノ比、宿ヲ出、壱里半来テヒハダ(日和田)ノ宿、馬次也。町はづれ五、六丁程過テ、あさか山有。壱り塚ノキハ也。右ノ方ニ有小山也。アサカノ沼、左ノ方谷也。皆田ニ成、沼モ少残ル。惣テソノ辺山ヨリ水出ル故、いづれの谷にも田有。いにしへ皆沼ナラント思也。山ノ井ハコレヨリ（道ヨリ左）西ノ方（大山ノ根）三リ程間有テ、帷子ト云村（高倉ト云宿ヨリ安達郡之内）ニ山ノ井清水ト云有。古ノにや、不しん也。　『曽良随行日記』　前（さき）の采女（うねべ）が詠める歌一首　安積山（あさかやま）　影さへ見ゆる山の井の　浅き心を吾（あ）が思（も）はなくに　3807　右の歌は傳云（いひつて）けらく、葛城王（橘宿禰諸兄、684～757）、陸奥（みちのく）の國に遣はさえし時、國司（くにのみこともち）あへしらふこと緩怠（おろそか）なりければ、王（おおきみ）の意（こころ）に悦びず、怒色顕面（おもほでり）まして、飲饌（みあへ）を設（ま）けしかども宴樂（うたげ）をもしたまはざりき。ここに前（さき）の采女風流（みさを）娘子有りて、左の手に觴（さかづき）を捧げ、右の手に水を持ち、王の膝（みひざ）に撃ちて、此の歌を詠みき。ここに王の意（こころ）解脱（なご）みて、終日（ひねもす）に樂飲（うたげあそ）びきといへり。　萬葉集　巻第十六（とをまりむまきにあたるまき）　有由縁（よしあるうた）また雑歌（くさぐさのうた）　まあ、こうした伝承もあり、歌仙紀貫之（866?～945）が著した古今和歌集仮名序でも、次のように書かれています。　あさか山のことばは、うねめのたはぶれよりよみて、　かづらきのおほきみをみちのおくへつかはしたりけるに、くにのつかさ、事おろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、すさまじかりければ、うねめなりける女の、かはらけとりてよめるなり、これにぞおほきみの心とけにける、あさか山かげさへ見ゆる山の井のあさくは人をおもふのもかは。　このふたうたは、うたのちちははのやうにてぞ、手ならふ人のはじめにもしける。 　この地で芭蕉は、古今集の巻十四（恋歌四）の巻頭にある、　題しらず　　　　　　　　　　　　　　　　　　読人しらず　みちのくのあさかの沼の花かつみ　かつ見る人に恋ひやわたらん　1160　を念頭に置いて、花かつみを探しましたが、誰も知る人はいませんでした。　この「花かつみ」とは一体何なのか。芭蕉以来300年を経過しても、まだはっきりとは分かっていないようです。　中臣女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌五首　をみなへし　佐紀澤に生ふる花かつみ　嘗ても知らぬ恋もするかも　675　萬葉集　巻第四　最勝四天王院の障子に淺香の沼かきたるところ　　藤原雅經　野邊はいまだ　淺香の沼に刈る草の　かつみるままに茂る頃かな　古今和歌集　巻第三 夏歌　</description>
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<category>おくの細道、いなかの小道</category>
<pubDate>Fri, 10 Jul 2009 09:55:10 +0900</pubDate>

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<title>数学セミナー（22）－一般相対性理論（8）－重力方程式（4）</title>
<description>　　　Tullio Levi-Civita （1873～ 1941） was an Italian mathematician, most famous for his work on absolute differential calculus (tensor calculus) and its applications to the theory of relativity .　（旧暦　閏5月 16日）　数学セミナー（21）－一般相対性理論（7）－重力方程式（3）のつづき　　この場合、2度の共変微分を行うと　　ρとσを入れ替えると、　　（2.1）－（2.2）より、　　　（2.3）は、（2.4）と（2.5）から、　　</description>
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<category>数学セミナー</category>
<pubDate>Wed, 08 Jul 2009 12:53:40 +0900</pubDate>

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<title>数学セミナー（21）－一般相対性理論（7）－重力方程式（3）</title>
<description>　　Elwin Bruno Christoffel （1829～1900） von Wikipedia.　　（旧暦　閏5月 12日）　数学セミナー(20)－一般相対性理論（6）－重力方程式（2）のつづき　微分幾何学の数学的な領域においてリーマン多様体の曲率（Curvature：曲面の曲がり具合を表す量）を表す最も標準的なものに、リーマン・クリストッフェルテンソル（the Riemann Riemann–Christoffel tensor）があります。　このリーマン-クリストッフェルテンソル（Riemann-Christoffel tensor） あるいはリーマン曲率テンソル（Riemann curvature tensor）は、アルベルト・アインシュタイン（Albert Einstein、1879～1955）が1916年に発表した『一般相対性理論の基礎』 という論文における「重力場の方程式の一般形式」の重要な構成要素になっています。　Die Grundlage der allgemeinen Relativitätstheorie. In: Annalen der Physik. 49, 1916, Seite . 769–822　　ただし、　　また、リーマン曲率テンソルには、次のような性質があります。　　ここで多様体（manifold）とは、局所的にユークリッド空間とみなせるような図形のことで、局所的に座標を描き込むことができます。この図形の任意の各点で、接ベクトル（tangent vector）の間に内積（inner product）が定まっている多様体をリーマン多様体といいます。　　座標変換を施しても形式が変化したりはしない性質を「共変形式」と云いますが、「共変微分」とは共変形式を作る微分ということになります。</description>
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<category>数学セミナー</category>
<pubDate>Sat, 04 Jul 2009 12:54:46 +0900</pubDate>

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