2008年07月14日

秋津島の旅(12)-吾妻の国(3)-生麦事件の碑

 

 旧東海道沿いの生麦事件の碑

 (旧暦  6月12日)

 小暑のさなかの土曜日、JR東日本柔道部のA女史のご案内をいただき、家内を伴ってJR東日本柔道部のお歴々と京浜急行生麦駅から徒歩10分程度にあるキリンビール横浜工場を見学してきました。

 京急生麦駅からキリンビール横浜工場に向かう途中、横浜市鶴見区生麦一丁目の国道15号線と旧東海道が合流する地点に、後の薩英戦争の引き金となり、その結果大藩薩摩が攘夷主義を捨てて明治維新の原動力となる遠因となった生麦事件の碑があります。

 生麦事件は、文久2年(1862)旧暦8月21日、武蔵国橘樹(たちばな)郡生麦村の東海道において薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件です。

 第12代薩摩藩主島津茂久(もちひさ:1840~1897)の父、島津久光(1817~1887)の行列にはからずも乗馬のまま乗り入れてしまった上海のイギリス商人C.L.リチャードソンら4人のイギリス人のうち、リチャードソンは供頭の奈良原喜左衛門(1831~1865)に左胴から腹にかけて斬り下げられ、はみ出した腸を押さえながら逃げる途中で久木村利久という家士に同じ箇所をさらに抜き打ちに斬られて落馬、駆けつけた海江田信義(1832~1906)ら数名の薩摩藩士によってとどめを刺されました。

 この碑のある場所は、C.L.リチャードソンが海江田信義ら数名の薩摩藩士によってとどめを刺され絶命した場所だということです。

 この碑は、当時、橘樹(たちばな)郡区制の第三大区四小区の副戸長をしていた黒川荘三によって、明治16年(1885) に建てられたものです。

 碑文には、この地で非業の死を遂げた英国商人リチャードソンの死を悼む歌が記されています。
 文久二年壬戌八月二十一日英國人力査遜(リチャードソン)、命をここに殞(おと)す。乃ち鶴見の人、黒川荘三所有の地なり。荘三、余に其の事を誌さむことを乞ふ。因つて之が為に歌ふ。歌に曰く、

 君、此の海壖(かいぜん:海辺の空き地)に流血す。
 我が邦(くに)の変進も亦其れに源(もとひ)す。
 強藩起ちて王室振ふ。
 耳目新たに民権を唱ふ。
 擾々(かっかく)たる生死、疇(たれ)か知聞す。
 萬國に史有り、君が名傳(つた)はる。
 我れ今、歌を作りて貞珉(ていみん:石碑)を勒(ろく)す。
 君、其れ笑を九源(黄泉)に含めよ。

 明治十六年十二月 敬宇 中村正直 撰


 江戸後期の文政13年(1830)に完成した昌平坂学問所地理局による『新編武蔵風土記稿』の巻六十六橘樹郡之九では、生麥村は次のように紹介されています。

 ◎生麥村 生麥村は東海道往還のかゝる所にして、海にそひたる地なり、神奈川川崎二宿の間にあり、神奈川へは一里川崎へは一里半を隔つ、江戸日本橋より六里の行程なり、子安鄕に屬せり、當村昔は貴志村と號せしよし村内養安寺の過去帳にあり或は岸村ともかけり、今の村名の起りしはかりそめのことにて、御入國の頃生麥を苅とりて海道を開かれしゆへ生麥と號すと云、家數二百四十二軒その内漁獵を産とするもの六十軒ばかりなり、・・・・・・

 「村名の起こりは、徳川家康が関東入国(天正18年、1590)のとき、生麦を刈り取って道に敷いたということから生麦というようになった」と記されています。
 江戸時代、生麦は御菜八ヶ浦のひとつとして、江戸城に新鮮な魚貝類を献上していましたが、生麦の漁師たちは貝をむき、貝殻を道に敷いていたことから、貝の「生むき」から転じて「なまむぎ」になったのではないかという説もあるそうです。

 白い貝殻が敷き詰められていたので、この辺りの道は貝殻道とも呼ばれていたとか。

 ちなみに御菜八ヶ浦とは、最も古い本芝、芝金杉の両浦に品川浦が加えられ、次に大井御林、羽田、生麦、神奈川、新宿の五ヵ浦が追加されて八ヵ浦となり、幕府への鮮魚類調達という特権をもって内湾一帯の海面で独占的な漁業を行い、また漁業以外の海面支配、海運などにも大きな力を持つに至ったとされています。

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:02│Comments(2)TrackBack(0)秋津嶋の旅

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この記事へのコメント
事件の碑文ですが、

 擾擾たる生死   ふり仮名が (かっかく) とありますが、

 漢和辞典を見ても、そういう読みは有りません、

 (じょうじょう)たる生死 ではありませんか?
Posted by 三谷 勉 at 2009年03月07日 19:46
なるほど。

 諸橋轍次先生(1883~1982)の大著『大漢和辞典』をみても、擾々は「ぜうぜう」と読んでいますが、実はこの読み方は、鶴見区史編集委員会が編纂して1982年に出版された『鶴見区史』の第四章第一節 開港と生麦事件の中の生麦事件碑の碑文の訳文(P316)として、擾々(かつかつ)とルビが振られていることに拠ります。

 この読み方は、碑文を作成した敬宇中村正直(1832~1891)がそのように読んだのでしょうかね?

 ちなみに、中村敬宇は福澤諭吉、森有礼、西周、加藤弘之らとともに設立した明六社の主要メンバーとして啓蒙思想の普及に努め、英国の作家サミュエル・スマイルズ(Samuel Smiles, 1812~1904)の『Self-Help』を翻訳して『西国立志編』として出版し、当時としては驚異的な100万部以上を売り上げ、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなっていますね。
Posted by 嘉穂のフーケモン at 2009年04月17日 17:30
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