2012年01月04日

陶磁器(13)−粉彩(景徳鎮官窯)

 
 
 黄釉粉彩八卦如意転心套瓶 (清 乾隆窯)
 高さ19.5cm、口径6.1cm、足径6.8cm

 (旧暦12月11日)

 明けましておめでとうごわす。今年もヨロピクでごわす。
 
 さて、この「転心套瓶」は、外側の瓶と内側の瓶の二重になっているのが特徴で、外側の瓶の腹部に透かし彫りされた八卦の隙間(鏤空)から、内部の筒の模様を見ることができます。

 外側の瓶は首と本体が如意雲紋で上下二つに分けられており、外側の瓶の首を回すと内側の瓶も回転するようになっています。分かれているようで互いに繋がりがあって、そこには「交泰瓶」の精神があり、天下の往来や国民の安泰を願う象徴的な意味が込められていると解説されています。

 この瓶は、内側の瓶、外側の瓶の上部、外側の瓶の下部の三つに分けて焼成されています。あらかじめ絵付けして焼いた上で、内側の瓶と外側の瓶の上部を接着し、それを外側の瓶の下部にはめ込んで、陶土を巻いて抜き取れないようにして素焼きし、再度釉薬を塗って低温で焼いて仕上げているそうです。

 解説すると簡単なようですが、三つに分けた部品が焼成の途中で変形すると組み立て不能となるし、三回焼成しても釉薬の発色を一定に保つための周到な温度管理が必要であり、「鬼斧神工」(神業さながら、入神の技の冴え)と云われるだけの高度な技術を要する名品です。

 中国の歴代王朝にあっては、陶磁器の色彩は権威の象徴でもありました。清朝の後宮の女性達が用いる陶磁の色は、下記のように決められていました。

 1. 皇后(一人)       黄色  
 2. 皇貴妃(一人)      白地に黄色
 3. 貴妃(二人)と妃(四人) 黄色地に緑の龍
 4. 嬪(六人)        藍地に黄色の龍
 5. 貴人(無定数)      緑地に紫の龍
 6. 常在(無定数)      緑地に赤い龍


 従って、『黄釉粉彩八卦如意転心套瓶』は皇后のものに相当するようです。

 中華人民共和国成立以前の中国の歴史において、清代は最も文化の高揚した時期であり、とりわけ前半期の清朝第4代康煕帝(在位1662〜1722)、第5代雍正帝(在位1722〜1735)、第6代乾隆帝(在位1735〜1796)の三代が繁栄期であったと云われています。

 この時期に清朝は、科学の分野で発展をみせていたヨーロッパ文化を積極的に取り入れ、漢文化と融合させた高度な文化を築きました。
 陶磁器の歴史においても、ヨーロッパの七宝(銅胎七宝)の顔料を用いた「粉彩」や各種の色釉などは清代を代表する技法でもあり、中国陶磁技術の頂点を示すものと評価されています。

 明代から発展、繁栄してきた景徳鎮は、清初の動乱で戦渦に巻き込まれて衰退しましたが、康煕19年(1680)9月、御器焼造の命が下され、内務府総官の広儲司郎中・徐廷弼、内務府主事の李廷禧、工部虞衡司郎中・臧応選、筆帖式・車爾徳の4人が景徳鎮に派遣されることになりました。清朝は徐廷弼を事務の総監として、臧応選を現業の総監として景徳鎮官窯の再建に当たらせようとしました。
 翌、康煕20年(1681)2月、彼らは景徳鎮に着任して督造を開始しています。

 1. 臧窯  康煕20年(1681)〜康煕27年(1688)
 特に工部虞衡司郎中、臧応選は、荒廃した景徳鎮官窯の復興整備と人材育成、焼成技術の向上に努め、清代官窯の基礎を築いたと云われています。
 臧応選が景徳鎮で督理製造に携わっていた康煕20年(1681)から康煕27年(1688)までの官窯を「臧窯」と呼び、青花五彩技術がさらに成熟をふかめ、「茶葉末」などの単色釉の作品に優れていました。

 

 五彩雉雞牡丹紋瓶 清 康熙 高45cm、口徑12.3cm、足徑14cm

 2. 郎窯  康煕44年(1705)〜康煕51年(1712)
 康煕44年(1705)からは江西巡撫を兼ねた漢軍鑲黃旗人出身の郎廷極(1663〜1715)が景徳鎮御器廠督陶官を命ぜられました。
 郎廷極は康煕51年(1712)に転任するまでの8年間、各種の陶磁を監督して製作せしめましたが、特に深い色調の銅紅色釉が著名となり、後年、この銅呈色の単色釉磁を「郎窯」と呼ぶようになりました。

 

 郎窯紅釉琵琶尊 清 康熙 高36.6cm、口徑12.6cm、足徑13.6cm

 3. 年窯 雍正4年(1726)〜乾隆元年(1736)
 雍正年間(1723〜1735)に景徳鎮御器廠督陶官を命ぜられたのは漢軍鑲黃旗人出身の内務府総管、年希堯(?〜1738)でした。1726年から1736年の間の景徳鎮官窯の陶磁には「年窯」という名称が与えられ、粉彩技法と単色釉技法の精練を図り、南宋官窯の模倣とみられる秞面に貫入がはいる青磁に優れたものを残しています。

 

 粉彩桃花紋直頸瓶 清 雍正 高37.6cm、口徑4.1cm、足徑11.6cm

 4. 唐窯 乾隆元年(1736)〜乾隆21年(1756)
 年希堯は江蘇省淮安の板閘関督理(税務管理)も兼務していたため、景徳鎮にあって実務を担当していたのは漢軍正白旗人出身の内務府員外郎、唐英(1682〜1756)でした。
 唐英は雍正6年(1728)に景徳鎮御器廠督陶官に任ぜられ、乾隆21年(1756)に退任するまでの28年間に、宋代、明代等の昔日の官窯の模倣作の製造や57種類にものぼる新しい釉薬、粉彩をはじめとする各種技法の開発を行うほか、《陶冶圖說》、《陶成紀事》、《瓷務事宜示諭稿》などの陶務に関する記述など、多くの功績を残しています。

 

 青釉鏤空粉彩描金夔鳳紋套瓶 清 乾隆 高32.8cm、口徑7.2cm、足徑11cm
 
 彼は《瓷務事宜示諭稿序》の中で、「陶器の製造に関する経験も無く、知識も持ち合わせていなかったが、門を閉ざし交遊を絶ち、精神を集中して苦心し、力を尽くして工匠と食をともにすること3年、雍正9年(1731)に至って物料、火加減等すべてを知るとは言えないまでも、変化の生じる理由をおおよそは会得した」と記しています。
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2011年12月28日

漢詩(29)-乃木希典(2)-金州城下作

 

 二〇三高地頂上より旅順港を望む
 海軍軍令部『明治三十七八年海戦史』(1909年)より
 
 (旧暦12月4日)

 山川草木轉荒涼   山川 草木  轉(うた)た荒涼
 十里風腥新戦場   十里 風 腥(なまぐさ)し  新戰場
 征馬不前人不語   征馬 前(すす)まず  人 語らず
 金州城外立斜陽   金州城外  斜陽に立つ


 山も川も草も木もすべてが砲弾の跡なまなましく、ただ荒れ果てている。
 十里の間、吹く風も血なまぐさい新戦場。
 軍馬は進もうとせず、傍らの者も黙している。
 金州城外夕日のなか、茫然としてたたずむ。 


 (六月)
  七日、晴、金州に到る。途中負傷者二百九十名、露兵四名に柳家屯に逢ふ。三里庄に兵站司令官出迎え来る。劉家屯の劉家に泊す。斎藤季二郎少佐軍政委員なり。来訪、同氏の案内、南山の戦場巡視、山上戦死者墓標に麦酒を献じて飲む。幕僚随行す。
  山河草木轉荒涼。十里風腥新戦場。征馬不前人不語。金州城外立夕陽。

 同八日、晴、朝七時金州発、北泡子崖に著す。両師団長を招集して訓令を与えたり。
 (乃木希典日記)


 明治37年(1904)5月2日、中国遼東半島の先端部、旅順口攻略の大命を帯びて第三軍司令官に親補された陸軍中将乃木希典(1849〜1912)は、同6月1日に運送船「八幡丸」に乗船して広島県の宇品港を出港し、同6月6日、遼東半島の塩大澳(えんたいおう)三官廟に上陸しました。
 この日、海軍の聯合艦隊司令長官東郷平八郎中将らとともに大将に昇進した乃木希典は、翌6月7日、幕僚らとともに金州に向かい、南山の戦場を訪れて、第二軍の戦死者および5月26日に金州城東門外に負傷して翌27日に戦死した長男、歩兵第一聯隊第一大隊第一小隊長乃木勝典少尉(1879〜1904、陸士13期)の英霊を弔っています。

 野に山に討死になせし益荒雄の あとなつかしき撫子の花   乃木希典

  第三軍ノ目的ハ、可成(なるべく)速(すみやか)ニ旅順口ヲ攻略スルニ在リ。如何ナル場合ニ於テモ、第二軍ノ後方ニ陸上ヨリスル敵ノ危害ヲ及サザル如クスルヲ要ス。
 (第三軍司令官ニ与フル訓令)


 明治37年(1904)6月30日、「満州軍総司令部戦闘序列」が下達され、乃木大将率いる第三軍は、第一師団(東京)、第九師団(金沢)、第十一師団(善通寺)の三個師団を基幹とする旅順攻囲軍を編成しました。

 第三軍の戦闘序列

 軍司令官 乃木希典大将 
  参謀長 伊地知幸介少将

 face01 第一師団(東京)       師団長 松村務本中将
 
   歩兵第一旅団   歩兵第一聯隊(東京)、歩兵第十五聯隊(高崎) 
   歩兵第二旅団   歩兵第二聯隊(佐倉)、歩兵第三聯隊(東京)
   師団付属     騎兵第一聯隊、野戦砲兵第一聯隊、工兵第一大隊

 face02 第九師団(金沢)       師団長 大島久直中将
 
   歩兵第六旅団   歩兵第七聯隊(金沢)、歩兵第三十五聯隊(金沢)
   歩兵第十八旅団  歩兵第十九聯隊(敦賀)、歩兵第三十六聯隊(鯖江)
   師団付属     騎兵第九聯隊、野戦砲兵第九聯隊、工兵第九大隊

 face03 第十一師団(善通寺)     師団長 土屋光春中将
 
   歩兵第十旅団   歩兵第二十二聯隊(松山)、歩兵第四十四聯隊(高知)
   歩兵第十八旅団  歩兵第十二聯隊(丸亀)、歩兵第四十三聯隊(善通寺)
   師団付属     騎兵第十一聯隊、野戦砲兵第十一聯隊、工兵第十一大隊

 face04 後備歩兵第一旅団       旅団長 友安治延少将
  
   後備歩兵第一、第十五、第十六聯隊

 face05 後備歩兵第四旅団       旅団長 竹内正策少将 
  
   後備歩兵第八、第九、第三十八聯隊

 face06 野戦砲兵第二旅団       旅団長 大迫尚道少将
  
   野戦砲兵第十六、第十七、第十八聯隊

 face08 攻城砲兵司令部        司令官 豊島陽蔵少将
  
   野戦重砲兵聯隊、徒歩砲兵第一、第二、第三聯隊、徒歩砲兵第一独立大隊

 face07 海軍野戦重砲隊        指揮官 黒田悌次郎海軍中佐

 face11 軍兵站部           兵站監 小畑蕃大佐

 face12 軍工兵部           工兵部長 榊原昇造大佐

 旅順攻囲戦は以下のような段階を経て行われました。

 1. 前哨戦(攻囲陣地推進)  (明治37年6月26日〜8月9日)
 2. 第1回総攻撃 (明治37年8月19日〜8月24日)
 3. 前進堡塁確保 (明治37年8月25日〜10月25日)
 4. 第2回総攻撃 (明治37年10月26日~10月31日)
 5. 第3回総攻撃 (明治37年11月26日~12月6日)
 6. 旅順開城まで (明治37年12月7日〜明治38年1月5日)

 
 明治37年(1904)12月6日午前7時30分、二〇三高地は11月に動員されたに第七師団歩兵第二十五聯隊第二大隊主力によって占領され、多大な犠牲を伴った旅順攻囲戦は最大の難関を越えました。

 明治37年7月31日に前進陣地を占領してから155日の日数を要し、後方部隊を含めて延べ約13万人、戦闘参加最大人員6万4千名(第3回総攻撃時)の兵力に及んだと報告されています。
  
 旅順攻囲戦における日本側の損害は、戦死15,390名、戦傷43,814名、計59,204名に対し、ロシア側の損害は、戦死・行方不明6,646名、戦傷・捕虜約25,000名と報告されています。
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2011年12月23日

奥の細道、いなかの小道(13)−武隈/宮城野

 
 仙台城趾 伊達政宗公銅像

 (旧暦11月29日)

 櫻より松は二木を三月越シ

 一 四日 雨少止。辰ノ尅、白石ヲ立。折ゝ日ノ光見ル。岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有リ。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。
 『曽良随行日記』


 芭蕉翁一行が訪れた「武隈の松」は、仙臺藩領岩沼鄕の武家屋敷町にありました。阿武隈川の河口に位置する岩沼鄕は、かつては武隈(たけくま)と呼ばれ、古内氏八千五十石七升(八百五貫七文)の城下町であり、承和九年(842)に勧請された竹駒神社の門前町、奥州街道と陸前浜街道の分岐点の宿場町として栄えました。

 芭蕉翁一行が訪れた頃には、岩沼鄕は仙臺藩領屈指の宿場町であり、北町、中町、南町の各町に治安・交通・運輸を所管する検断(大庄屋)が設置されていました。

 さてこの松は、宮内卿藤原元良(善)が陸奥守に赴任した平安前期に館の前に植えた松で、その後野火によって焼け、平安中期の武将源満仲(912?〜997)が陸奥守として赴任したときに植え、また無くなってしまったので、藤原道長の側近でもあり、和泉式部の夫であった橘道貞(?〜1016)が陸奥守に赴任した時に植えた松だと伝えられています。

 みちのくにの守にまかり下れりけるにたけくまの松の枯れて侍りけるを見て小松を植ゑつがせ侍りて任果てゝ後又同じくににまかりなりて彼のさきの任に植ゑし松を見侍りて
 うゑし時ちぎりやしけむたけくまの 松をふたたびあひ見つるかな
 (宇恵し登きち起里やしけ無多計久満の松をふたたびあ飛見つ留嘉那)
                               後撰集 巻17 雑三-1241 藤原元善朝臣


 平安末期の歌人藤原清輔(1104〜1177)が著した歌学書『奥義抄』には、

 武隈の松はいづれのよゝりありけるものともしらぬ人は、うゑしときとよまれたれば、おぼつかなくもや思ふとて書きいでゝ侍るなり、此松は昔よりあるにはあらず。宮内卿藤原元善といひける人の任に、たちの前にはじめてうゑたる松なり。みちのくにの館はたけくまといふところにあり。
 この人ふたゝびかの國になりて後のたびよめる歌なり。
 たけくまのはなはの松ともよめり。
 重之歌に云、

 たけくまのはなにたてるまつだにも わがごとひとりありとやはきく
 たけくまのはなはとて、山のさしいでたる所のあるなりとぞ、ちかくみたる人はまうしし。この松野火にやけにければ、源満仲が任に又うう。其後又うせたるを橘道貞が任にうう。其後孝義きりて橋につくり、のちたえにけり。うたてかりける人なり。なくともよむべし。

 と記してあります。

 「武隈の松」は枯れたり、陸奥守藤原孝義により名取川の橋として伐られたりしましたが、そのたびに幹が根本付近から二股に分かれる松が植え継がれてきたようです。そして芭蕉が見たのは、五代目の松であろうと云われ、現在の松は文久二年(1862)に暴風で倒木した後に植えられた七代目の松と云うことです。

 この「武隈の松」は陸奥の歌枕の中でもその詠歌の多いことでは抜きんでており、能因法師、西行法師をはじめ多くの歌人に詠まれています。
    
   陸奥守にてくだり侍りける時、三条太政大臣の餞し侍りければ、よみ侍りける
   たけくまの松を見つつやなぐさめん 君がちとせの影にならひて
                               拾遺集 巻6 別-338 藤原為頼


  則光朝臣のもとにみちのくにに下りて武隈の松をよみ侍りける
  武隈の松はふた木を都人 いかがと問はばみきとこたへむ
  (堂希久万の松ハ二木越美屋古人い可ゝと問はゝみ起とこたへ舞)
                               後拾遺集 巻18 雑四-1041 橘季通


  みちのくにに再び下りて後のたび、たけくまの松も侍らざりければよみ侍りける


  武隈の松はこの度跡もなし ちとせを経てや我は来つらむ
                               後拾遺集 巻18 雑四-1042 能因法師

  橘季通、陸奥に下りて武隈の松を歌によみ侍りけるに、ふた木の松を人とはばみきと答へんなどよみて侍りけるを、つてにききてよみ侍りける
  武隈の松は二木をみ木といふは よくよめるにはあらぬなるべし
                               後拾遺集 巻20 雑六-1199 僧正深覚


  みちのくにほど遠ければたけくまの 松まつ程ぞ久しかりける
                               実方集 藤原実方


  武隈の松も昔になりたりけれども、跡をだにとて見に罷りて詠みける
  枯れにける松なき跡の武隈は みきと言ひても甲斐なかるべし
                               山家集 羈旅歌 西行法師

  人しれずおもへばくるしたけくまの 松とはまたじまてばすべなし
                               金槐和歌集 恋-421 源実朝
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2011年11月23日

数学セミナー(27)ーシュヴァルツシルト解(3)

 

 Artist impression of a binary system with an accretion disk around a black hole being fed by material from the companion star by Wikipedia.

 (旧暦10月28日)

 一葉忌 
 薄幸の女流小説家樋口一葉の明治29年(1896)の忌日。
 一葉樋口夏子(戸籍名奈津)は、14歳で中島歌子(1844〜1903)の歌塾「萩の舎」に入門し、和歌のほか千蔭流の書や源氏物語などの王朝文学を学びましたが、父の事業の失敗と死去により生活は困窮。その後、小説家として生計を立てるために東京朝日新聞小説記者の半井桃水に師事して、図書館に通い詰めながら処女小説「闇桜」を桃水主宰の雑誌「武蔵野」の創刊号に発表しています。

 生活苦の中、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表し、森鴎外や幸田露伴から高い評価を受けましたが、わずか24歳6ヶ月で肺結核により死去しました。

 なお、一葉が師事した中島歌子は、15歳で水戸藩士林忠左衛門に嫁し、水戸天狗党の乱に連座して捕らえられるも出獄後、幕末・明治初期の国学者・歌人であった加藤千浪(1810〜1877)に師事して和歌を学び、明治10年(1877)ごろから東京小石川の安藤坂に歌塾「萩の舎」を開いて貴顕夫人、令嬢に和歌などを教えています。
また、宮内省の御歌所に出仕し、日本女子大学校国学教授も務めています。


 数学セミナー(26)ー相対性理論(12)ーシュヴァルツシルト解(2)のつづき。

 高校時代の同期生との情報共有のためにFacebookなるものをはじめてみましたが、あれはあれで写真も掲載でき、また短い文章でも発信できるので、なかなか便利なものじゃごわさんか。
 さて世の中、どこもかしこもスマホブームで、特にApple社のiPhon4sがauから発売されてからは大ブレイク。我が家の兄ちゃん達も早速iPhon4sに乗り換えましたで。

 ちゅうことで準備もでけましたけん、そろそろシュヴァルツシルト解を導きだしましょう。

 

 これが「アインシュタインの重力の法則」と呼ばれているものです。
 ここで「空っぽ」というのは、物質は存在せず、重力場の他にはどんな物理的な場も存在しないと云うことを意味しています。
 これは、太陽系の惑星間空間にはよい近似であてはまり、そこでは上記の式が使用可能となります。

 従って、前回求めた式から、

 

 (3.2)式を(3.1)式に代入すると、

 

 従って、

 

 ここで、極座標の動径r→∞で空間は近似的に平坦になると仮定すると、λおよびνはr のみの関数であることから、未定の計量テンソルは、

 

 従って、
 
 

 上記から、

 

 前回求めた式から、

 

 (3.3)を(3.4)に代入すると、

 

 すなはち、

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2011年11月05日

歴史/ヨーロッパ(5)ープリニウスの博物誌

 
 

 F. J. ベルトゥーフ (1747~1822) 『子供のための絵本 動物、果物、鉱物、衣装その他各種の学ぶべきものを、自然、芸術、学問の領域から集めた楽しい本』(1790年刊)。 
コカトリス(左上)、フェニックス(右上)、ユニコーン(左下)。

(旧暦10月10日)

 博物誌(Naturalis Historia)全37巻を著したガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus, 23〜79)は古代ローマの博物学者ですが、政治家でもあり、また軍人としても活躍しました。
 彼が著した博物誌全37巻は、天文・地理から動植物・鉱物、さらには技術や芸術を含む文化にまで及び、当時の百科全書と呼ばれるにふさわしい範囲の広さを示しています。
 中でも植物や動物の薬品としての効能や利用法に多くの巻があてられているのは、当時の科学の中に占めていた薬物学の重要性を示すものと云われています。

 しかしながら、その内容については、数多くの文書を参考にしており、かの有名なアリストテレス(B.C.384〜B.C.322)の後継者となったギリシアの哲学者、博物学者テオフラストス(B.C.371〜B.C.287)の『植物誌』(全9巻、現存する西洋の薬用植物誌としては最古のもの)やその他の文書を踏襲した部分もあるようです。

 第1巻の内容説明の末尾に、プリニウスは自ら参照したとする古代作家の名前をあげていますが、それによるとローマ人146名、その他の外国人327名が名を連ねています。
 特にルネサンス期の15世紀にラテン語の活版印刷で刊行されて以来ヨーロッパの知識階級に愛読され、科学史・技術史の記述や古代ローマ芸術に関する記述は貴重な資料としても引用されたようです。

 ところが一方、怪獣、巨人、半漁人など現存しない怪物についても記述されており、近世の幻想文学にも影響を与えたとされています。
その一部を上げると、

 1. アピス(Apis)
  右腹に三日月型の白斑がある雄牛。エジプトの神牛。(第8巻第71(46)章第184 - 186節)
 2. アンフィスバエナ(Amphisbaena)
  エチオピアに棲む双頭の毒蛇。(第8巻第35(23)章第85節)
 3. エアレー(Eale)
  カバぐらいの大きさで、ゾウの尾を持ち、毛色は黒あるいは黄褐色で、イノシシの顎を持ち、どの角度にも動かすことの出来る二本の長い角を持つ動物。(第8巻第30(21)章第73節)
 4. カトブレパス(Catoblepas)
  頭をいつも地面に垂れ下げていて、その目を見た者は誰でも即座に絶命する。(第8巻第32(21)章第77節)
 5. コロコッタ(Crocota, Corocotta)
  ハイエナと雌ライオンとの交配によって生まれる怪物。人間や牛の声を真似る。(第8巻第30(21)章第72節、第8巻第45(30)章第107節)
 6. サラマンダー(Salamandra)
  トカゲのような形をした、全身を斑点に覆われている動物。(第10巻第86(66)章第188節、第11巻第116(53)章第280 – 281節、第29巻第23(4)章第74 - 76節)
 7. スフィンクス(Sphinx)
  毛が褐色で胸に一対の乳房がある獣。(第8巻第30(21)章第72節)
 8. ドラゴン(Draco)
  インドに棲むドラゴンは象と戦う際に、体を巻きつけ、動けないようにする。(第8巻第11(11)章第32節)
 9. トリトン(Triton)
  半人半魚の姿をした海神。(第9巻第4(5)章第9節)
10. ナウプリウス(Nauplius)
  船の形をした貝。(第9巻第49(30)章第94節)
11. ネレイス(Nereis)
  半人半魚の姿をした海の精霊。
12. バシリスク(Basiliscus)
  キュレナイカ(リビア王国東半)に生息する猛毒のトカゲの一種。その目で見られた者は即死、もしくは石化するといわれる。(第8巻第33(21)章第78 - 79節)
13. フェニックス(Phoenix)
  アラビアに生息し、大きさは鷲ぐらいで、頸まわりは金色、尾は青く、薔薇色の毛が点々と混ざり、体は紫。(第10巻第2(2)章第3 - 5節)
14. ペガサス(Pegasus)
  エチオピアに生息する翼の生えた角を持つ馬。(第8巻第30(21)章第72節、第10巻第70(49)章第136節) 
15. マンティコア(Mantichora)
  エチオピアに生息し、顔は人間、体は獅子、尻尾はサソリのようで、人間の声を真似るという。(第8巻第30(21)章第75節、第8巻第45(30)章第107節)
16. ユニコーン(Monoceros)
  インドに生息し、馬の体、鹿の頭、象の肢、猪の尾を持ち、額の中央に黒く、長い一本の角が生えている獰猛な獣。(第8巻第31(21)章第76節)
17. レウクロコタ(Leucrocota)
  ハイエナの異種。ロバほどの大きさで、鹿の肢、獅子の首、尾、胸、穴熊の頭、割れた蹄、耳まで裂けた口を持ち、歯のかわりに一本の連続した骨がある。人間の声を真似る。(第8巻第30(21)章第72節)
 (Wikipedia より)

 ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus, 23〜79)は、北イタリアの風光明媚なラリウス湖畔のコムム(コモ)に生まれ、首都ローマにおいて頭角を表し、騎士階級の職である援軍騎兵隊長、元首属吏、ミセヌム艦隊長などを勤め、また、ウェスパシアヌス帝(在位69〜79)、ティトゥス帝(在位79〜81)の顧問でもありました。
 甥で養子の文人政治家ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス、61〜112)と区別するために大プリニウス(Pliny the Elder)と呼ばれています。

 大プリニウスは公務の傍ら膨大な著作を残したと、甥の小プリニウスはマケル宛ての書簡に書いています。

 1. 『騎兵の槍術』 1巻。
 2. 『ポンポニウス・セクンドゥスの生涯』 2巻。
 3. 『ゲルマニア戦記』 20巻。
 4. 『弁論術学習案内』 3巻。
 5. 『文法上の曖昧な表現』 8巻。
 6. 『アウフィディウス・バッスス以後の歴史』 31巻。
 7. 『博物誌』 37巻。唯一現存するもの。

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2011年09月15日

クラシック(24)−ショパン(3)−ピアノ協奏曲第1番 ホ短調Op.11

 

 プリニウス 『博物誌』(ドイツ語版)より「バシリスク」
 1584年、フランクフルト・アム・マイン。
 古代ローマの学者大プリニウスが書いた『博物誌』第8巻第33(21)章第78 - 79節では、バシリスクは小さいながら猛毒を持ったヘビで、その通った跡には人を死に至らしめるほどの毒液が残った、そしてバジリスクに睨まれることはその猛毒と同じように危険だということが記述されている。

 (旧暦8月18日)

 「ピアノの詩人」と評されたフレデリック・フランソワ・ショパン(Fryderyk Franciszek Chopin、1810〜1849)の出世作とも云うべき作品は、若きショパンがワルシャワ音楽院第2学年在籍中の1828年に作曲した、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』第1幕第3場のドン・ジョヴァンニとツェルリーナの有名な二重唱『ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ(Là ci darem la mano)』(お手をどうぞ)をテーマにした「ラ・チ・ダレム変奏曲 変ロ長調 作品2(Variations sur "La ci darem la mano" de "Don juan" de Mozart)」だと云われています。

 それは、この「ラ・チ・ダレム変奏曲作品2」がウィーンで出版された1年後に、ライプツィヒの『Allgemeine Musikalische Zeitung』誌に掲載されたドイツのロマン派音楽を代表する作曲家ロベルト・アレクサンダー・シューマン(Robert Alexander Schumann, 1810〜1856)の、「諸君、帽子をとりたまえ、天才ですぞ!(Hut ab, ihr Herren, ein Genie)」とショパンを絶賛した記事によるとされています。
http://www.pianostreet.com/blog/files/schumann-article-on-chopin-opus-2.pdf
 
 この記事は、シューマンの芸術理念を対照的な二つの性格に分かち与えた空想上の人物オイゼビウス(Eusebius)とフロレスタン(Florestan)がシューマンと共に新人ショパンを語る形式をとって展開されます。
 内面的で瞑想にふけるオイゼビウスと活発で英雄的なフロレスタン、そしてシューマンは次のように語ります。
 以下、青澤唯夫著 『ショパンその生涯』での英訳からの文章を参考にしながら辿ってみましょう。  

 Eusebius trat neulich leise zur Türe herein. Du kennst das ironische Lächeln auf dem blassen Gesichte, mit dem er zu spannen sucht. Ich saß mit Florestan am Klavier. Florestan ist, wie du weißt, einer von jenen seltenen Musikmenschen, die alles Zukünftige, Neue, Außerordentliche schon wie lange vorher geahnt haben ; das Seltsame ist ihnen im andern Augenblicke nicht seltsam mehr ; das Ungewöhnliche wird im Moment jhr Eigenthum.
 オイゼビウスがそっと入ってきた。つい少し前のことだ。この男の青白い顔に浮かぶいかにも好奇心をそそる皮肉な微笑みは君もご存じだろう。ぼくはフロレスタンと一緒にピアノに向かっていた。フロレスタンというのはご承知の通り、将来起こる新しいことや変わったことをとっくの昔にみんな見越すことができる希に見る音楽的な才能を持った男の一人だ。奇妙な物は、瞬く間に彼らにとっては奇妙な物ではなくなる。変わった物は、瞬時の内に彼らの所有物となる。

 Eusebius hingegen, so schwärmerisch als gelaßen, zieht Blüthe nach Blüthe aus ; er faßt schwerer, sber sicherer an, genießt seltener,aber langsamer und länger ; dann ist auch sein Studium strenger und sein Vortrag im Klavierspiele besonnener, aber auch zarter und mechanisch vollendeter, als der Florestans.
 オイゼビウスは一方、非常に空想にふける男で、一度に1本だけ花を摘む。彼はより多くの困難を伴って、しかし、同時によりしっかりと、自分自身を帰する。まれに、しかし、より完全に、そして、より永続的に、ものごとを楽しむ。これゆえに、彼はフロレスタンより良き学生であり、彼のピアノの演奏はより独創的で、より優しく、技術的により完璧である。

 Mit den Worten : „Hut ab, ihr Herren, ein Genie,“ legte Eusebius ein Musikstück auf, das wir leicht als einen Satz aus dem Haslinger’schen Odeon erkannten. Den Titel durften wir nicht sehen. Ich blätterte gedankenlos im Buche ; dieses verhüllte Genießen der Musik ohne Töne hat etwas Zauberisches. Überdies scheint mir, hat jeder Componist seine eigenthümlichen Notengestaltungen für das Auge: Beethoven sieht anders auf dem Papier, als Mozart, etwa wie Jean Paul’sche Prosa anders, als Göthe’sche.
 『諸君、帽子を取りたまえ、天才ですぞ!』と言いながら、オイゼビウスがハスリンガー(オーストリアの楽譜出版者、1787〜1842)によって出版された一つの楽譜を見せた。タイトルは見えなかったけれども、ぼくは何気なくページをめくってみた。この音のない音楽の密かな楽しみには、なにか魔法めいた魅力がある。それにどんな作曲家も独自の譜面の形があると思う。ちょうどジャン・パウル(ドイツの小説家、1763〜1825)の散文がゲーテのものと異なるように、ベートーヴェンは譜面の上ではモーツァルトとは違う。

 Hier aber war mir's, als blickten mich lauter fremde Augen, Blumenaugen, Basiliskenaugen, Pfauenaugen, Mädchenaugen wundersam an: an manchen Stellen ward es lichter - ich glaubte Mozart’s „Là ci darem la mano“ durch hundert Accorde geschlungen zu sehen, Leporello schien mich ordentlich wie anzublinzeln und Don Juan flog im weißen Mantel vor mir vorüber.
 しかしこの時はまるで見慣れない眼、花の眼、バシリスク(伝説の怪蛇)の眼、クジャクの眼、乙女の眼が、妖しく見つめているような気がした。それがところどころに鋭く光るのだ。ぼくはモーツァルトの「お手をどうぞ(Là ci darem la mano)」に何百という和音が絡みついているのではないかと思った。レポレロ(ドン・ジョヴァンニの従者兼秘書)が目配せするかと思うと、白いマントをはおったドン・ジョヴァンニが鳥のように飛んでいく。

 „Nun spiel's,“meinte Florestan lachend zu Eusebius, „wir wollen Dir die Ohren und uns die Augen zuhalten. “Eusebius gewährte; in eine Fensternische gedrückt hörten wir zu. Eusebius spielte wie begeistert und führte unzälige Gestalten des lebendigsten Lebens vorüber; es ist, als wenn der frische Geist des Augenblicks die Finger über ihre Mechanik hinauahebt. Freylich bestand Florestan’s ganzer Bayfall, ein seliges Lächeln abgerechnet, in nichts als in den Worten: das die Variationen etwa von Beethoven oder Franz Schubert seyn konnten, wären sie nämlich Klavier-Virtuosen gewesen —
 「じゃあ、弾いてみないか」とフロレスタンが笑いながらオイゼビウスに言う。「ぼくたちは眼を閉じて、邪魔しないように聞こう」。 オイゼビウスはうなずく。ぼくたちは窓の鎧戸にもたれて耳をすませる。オイゼビウスはものに憑かれたように弾き始めた。生命感あふれるものを次々に呼び出すように弾くので、一瞬の霊感が指に乗り移って力以上のものを発揮したかと思えるほどだった。
  フロレスタンはすっかり感激してしまって、陶然とした微笑を浮かべたきりしばらく言葉もなかったが、やっとのことで、この変奏曲はきっとベートーヴェンかシューベルトのどちらかが書いたのだろう、なにしろ二人は有名なピアノの名手だったからと言った。


— wie er aber nach dem Titelblatte fuhr, weiter nichts las, als:
Là ci darem la mano, varié pour le Pianoforte par Frédéric Chopin, Opus 2,
und wir beyde verwundert ausriefen: ein Opus zwey und wie Eusebius hinzufügte: Wien, bey Haslinger und wie die Gesichter ziemlich glühten vom ungemeinen Erstaunen, und außer etlichen Ausrufen wenig zu unterscheiden war, als: „Ja, das ist wieder einmal etwas Vernünftiges - Chopin - ich habe den Namen nie gehört - wer mag er seyn - jedenfalls - ein Genie“ (...)

 —ところが表紙を見ると、
 『ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ、ピアノのための変奏曲 フレデリック・ショパン、作品2 』
とある。ぼくたちは信じられずに叫んだ。「作品2だって!」。オイゼビウスが付け加えた。「ウィーン、ハスリンガー出版」。ぼくたちは興奮で顔を赤らめて、感嘆のほかには何も思い浮かばなかった。「ついにすごい奴が現れたぞーショパンー聞いたことのない名前だーどんな男だろうーともかく天才だ!」・・・・・

 
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2011年08月23日

やまとうた(27)-ゆく春よ しばしとゞまれゆめのくに

 
 
 
 歌人 九条武子夫人

 (旧暦7月24日)

 一遍忌,遊行忌
 時宗の開祖一遍上人の正応2年(1289)の忌日

                            光 明
 ゆく春よ しばしとゞまれゆめのくに うたの國にし あそぶ子のため


 明如上人の弟姫(をとひめ)として、大谷光瑞氏の令妹(いろと)として、わが武子夫人は、御影堂の北、四時(しいじ)の花絶えせざる百花園のうちにうまれぬ。緋の房の襖のおく深くひととなりて、縫の衣に身をよそはれ、數多の侍女(まかだち)にかしづかれ、日毎に遊びつるは、飛雲閣、白書院、黒書院、月花の折々に訪ひつるは、伏見の三夜荘なりき。桃山時代の豪華なる建築、徳川盛期の畫人の筆になれる襖畫は、その目にしみ、心にうるほひて、濶達なる性(さが)とともに、典雅なる質(もとゐ)は養はれき。えにしさだまりて外遊の旅に出で、歐州の國々をゆきめぐりて、世界の文明の潮流をも浴みつ。爾来十年、泰西に研学にいそしまるる背の君を待ちつつ、道のために地方を巡らるる外には、ひとり錦華殿のうちにあした夕べをおくりて、あるは洋琴(ぴあの)を友とし、あるは画筆に親しまる。さはれ、法の道におほしたてられし静かなる胸にも、猶さびしさのみたされざるものあればにや、その折々の思ひはあふれて、數百首のうたとしなりぬ。この金鈴一巻よ、世にうつくしき貴人(あてひと)の心のうつくしさ、物もひしづめる麗人(かたちびと)の胸のそこひの響を、とこしへに傳ふるなるべし。
   
     大正九年六月            
                                        佐佐木信綱
 歌集『金鈴』より

 
 千万(ちよろず)の寶はむなしたふときは おやよりつづくただこの身のみ
                                   九条 武子


 この一首は九条武子の歌集『金鈴』の最後に載せられている歌ですが、日展に連続入選している気鋭の女流書家が、自ら主催した東日本大震災復興支援バザーに対する心ばかりの寄付の御礼として、今回、短冊に書いて贈っていただいた歌でもあります。

 ちなみに、日展についてですが、
「日展」は正式名称「日本美術展覧会」(The Japan Fine Arts Exibition)の略称で、その歴史は以下のようです。

 1. 文部省美術展覧会(初期文展) :明治40年(1907)~大正7年(1918)
 2. 帝国美術院展覧会(帝展)    :大正8年(1919)~昭和10年(1935)
 3. 文部省美術展覧会(新文展)   :昭和11年(1936)~昭和19年(1944)
 4. 日本美術展覧会(日展)     :昭和21年(1946)~


 最初期は第1部「日本画」、第2部「西洋画」、第3部「彫刻」の3部制でしたが、昭和2年(1927)から第4部「美術工芸」が加わり、昭和23年(1948)からは第5科「書」が加わって5科制になっています。
また、平成19年(2007)からは、東京での会場を上野の東京都美術館から六本木の国立新美術館に移しています。

 さて、日展の書の作品の横には、作者名と共に「新入選」、「入選」、「会友」、「会員」などと記入された札が付けてありますが、「新入選」、「入選」は判るとしても、「会友」と「会員」の違いについて識者に尋ねると、「会友」とは公募出品して入選回数が10回以上になった人あるいは特選を1回得た人のことだそうです。
 一般公募者+「入選10回」 又は 「特選1回」 ⇒ 「会友」

 「会員」とは「会友」が更に特選を得ることで次回は「出品委嘱」となり無鑑査出品となりますが、この委嘱者の中から新審査員が選出されます。この新審査員になることが「会員」への仲間入りを示しているそうです。
 「会友」+「特選1回」 ⇒ 出品委嘱 → 新審査員 ⇒ 「会員」

 更に審査員をもう2回歴任すると、「評議員」への推挙対象となります。
 「会員」+更に審査員をもう2回 ⇒ 「評議員」 
 
 さらにさらに、
「評議員」+内閣総理大臣賞 ⇒ 《日本芸術院賞→日本芸術院会員》 ⇒ 『常務理事』

 平成23年(2011)7月1日現在の日展常務理事は、日本画5名、洋画4名、彫刻9名、工芸美術10名、書6名と錚々たる芸術家が名を連ねていますが、このヒエラルキー(Hierarchie、階層制)には、ものすごいものが感じられます。

 このところの日本経済新聞に掲載されている日本画家小泉淳作氏の「私の履歴書」の中で、美術評論家田近憲三氏について書かれた次のような一節があります。

 真面目な人だった。酒は召し上がらず、絵について淡々と語られる。蘊蓄はさすがだった。大物画家の腰巾着みたいな美術評論家もいるが、田近さんは違った。文化勲章、芸術院会員、美大のポスト……。そういうものに執着する人たちを嫌悪した。
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2011年08月10日

日本(39)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(11)

 
 

 (旧暦7月11日)

 西鶴忌
 元禄6年(1693)、『好色一代男』などで知られる江戸期の浮世草子の創始者、人形浄瑠璃作者、俳人、井原西鶴(1642〜1693、本名平山藤五)の忌日。『源氏物語』の光源氏か『好色一代男』の世之介か、『四畳半襖の下張』の金阜山人か、はたまた『失楽園』の久木祥一郎か・・・。

 日本(38)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(10)のつづき

 イギリスに亡命したユダヤ人の理論物理学者ルドルフ・エルンスト・パイエルス(Rudolf Ernst Peierls、1907~1995)とオットー・フリッシュ (Otto Robert Frisch、1904~1979)が作成した原子爆弾の可能性を論じた二種類の覚書(The Frisch-Peierls memorandum)は、当時、彼らが所属していたバーミンガム大学物理学科の主任マーク・オリファント(Marcus Laurence Elwin Oliphant、1901~2000)により、1940年3月19日、防空科学調査委員会(The Committee on the Scientific Survey of Air Defence)の文民議長であったオックスフォード大学のサー・ヘンリー・ティザード(Sir Henry Thomas Tizard 、1885~1959) へ届けられました。

 フリッシュ−パイエルスの覚書(The Frisch-Peierls memorandum)を受け取ったティザードは検討の後、1940年4月10日、専門の科学者からなる小委員会を結成しました。 そして、その議長には、インペリアル・カレッジ(Imperial College of Science, Technology and Medicine)の物理学者で、中性子の衝突実験を行い、ウラニウムの核分裂連鎖反応には懐疑的であったG・P・トムソン(George Paget Thomson、1892〜1975)を就任させました。

 また、そのメンバーには、前述のマーク・オリファントの他、ウラン235の高速中性子核分裂の実験を行っていたジェームズ・チャドウィック(Sir James Chadwick、1891〜1974)の助手のフィリップ・ムーン (Philip Burton Moon、1907〜1994)やα線やβ線を発見した著名な物理学者アーネスト・ラザフォード(Ernest Rutherford, 1871〜1937)の弟子であるジョン・コッククロフト(Sir John Douglas Cockcroft、1897〜1967)など錚々たる科学者を加えました。

  1940年4月10日に王立協会で開かれたトムソン委員会と呼ばれる最初の非公式な会合では、ウラニウム235の核分裂連鎖反応による原子爆弾の可能性を論じたフリッシュ−パイエルスの覚書(The Frisch-Peierls memorandum)は懐疑的に受け取られていましたが、同年4月24日の2回目の会合では、参加したジェームズ・チャドウィック(Sir James Chadwick、1891〜1974)の「同様な結論に到達したが、実験による中性子吸収断面積についてのさらなる情報を得てからでないと報告できないと思っていた。」という告白により、委員会はウラニウムの同位体分離の技術開発に多大の注意を払うようになりました。

 同年6月の下旬、議長のG・P・トムソンは、彼らの活動内容を偽装するために、彼の委員会に「MAUD」という名称をつけました。
 ウラニウムの同位体分離技術については当初、1938年にドイツの物理化学者クラウス・クルジウスによって考案された、垂直二重円筒の内外温度差を利用して同位体を分離するクルジウス管による熱拡散法(Thermal diffusion method)が検討されていましたが、1940年6月、ドイツからオックスフォード大学クラレンドン研究所に招聘されていた化学者フランシス・サイモン (Francis Simon、1893〜1956)によって、気体が多孔性物体の中を拡散する時に分子量の軽い気体ほど早く拡散するというグレアムの法則(Graham's law)を応用した気体拡散法 (Gaseous diffusion method) が最も有望であると結論されました。

 ウラニウムを気体拡散法で同位体分離するには、約 56.5 ℃ で昇華して気体になる六フッ化ウランを用います。単体の金属ウランを気化させるには沸点3745 ℃の高温を維持しなければなりませんが、六フッ化ウランは沸点が低いために、気体状態を維持するのが容易になります。
 沸点の低い六フッ化ウランを用いた場合、理想的な条件下でもその濃縮比は1.0043 程度に過ぎませんが、このプロセスを繰り返すことによりウラン235の割合をほぼ100%まで近づけることができます。

 昭和16年(1941)7月15日、MAUD 委員会はウラン爆弾は実現可能だとする最終報告を承認し、解散しました。 その報告書によれば、爆弾に含まれるウラン235は25ポンド(約11㎏)となり、その破壊力は TNT火薬1,800トンに相当し、大量の核分裂生成物を生じるとされました。 また、1943年末には爆弾製作の資材が提供可能となるとしました。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:15Comments(0)TrackBack(0)歴史/日本

2011年07月23日

漢詩(28)ー毛澤東(2)−沁園春 長沙

 

 橘子洲

 (旧暦6月23日)

 沁園春 長沙
 一九二五年


 獨立寒秋        獨り 寒秋に立てば
 湘江北去        湘江は 北に去る
 橘子洲頭        橘子洲頭(きつししゆうとう)
 看萬山紅遍       看よ 萬山の紅きこと遍(あまね)く
 層林盡染        層林 盡(ことごと)く染まるを
 漫江碧透        漫江 碧(あお)く透み
 百舸爭流        百舸 流れに爭ふ
 鷹撃長空        鷹 長空を撃ち
 魚翔淺底        魚 淺底に翔(ひるが)へる
 萬類霜天競自由     萬類 霜天に自由を競ふ
 悵寥廓         寥廓を悵(なげ)き
 問蒼茫大地       蒼茫たる大地に 問ふ
 誰主沈浮        誰か 沈浮を主(つかさど)ると

 携來百侶曾游      百侶を携へ來りて 曾て游べり
 憶往昔 崢嶸歳月稠   往昔を憶へば  崢嶸(さうくわう)として  歳月 稠(おほ)し
 恰同學少年       恰(まさ)に 同學 少年にして
 風華正茂        風華 正に茂れる
 書生意氣        書生の 意氣は
 揮斥方遒        揮斥(きせき)して 方(まさ)に遒(つよ)し
 指點江山        江山を 指點(してん)し
 激揚文字        文字に 激揚し
 糞土當年萬戸侯     當年の 萬戸侯を糞土とす
 曾記否         曾て 記すや否や
 到中流撃水       中流に到りて 水を撃てば
 浪遏飛舟        浪 飛舟を 遏(とど)めたるを


 独り 晩秋の岸辺にたたずめば
 湘江は北へ流れ去る
 橘子洲の南端
 見よ 山々は全て紅く
 山腹に重なる木々は ことごとく紅葉となる
 水面は一面 青く澄み
 多くの舟が 流れに逆らって上る
 鷹は大空を羽ばたき
 魚は浅瀬でひるがえる
 命あるもの 霜天の下 自由に生きる
 天を恨み
 果てしなく広がる大地に問う
 人の世で 誰が浮き沈みを司っているのか

 かつて多くの友人と集い来て この地で青春を過ごした
 昔を顧みれば なみなみならぬ歳月が積み重なる
 私たちは皆若く
 花の盛りだった
 書生の意気は
 奔放でまさに強く
 国事を論じ
 文章に激昂し
 世の軍閥を罵倒した
 友よ 覚えているだろうか
 湘江の中ほどで水を撃ち 
 祖国の回復を誓ったとき
 激しい波が 飛ぶように速い舟さえ止(とど)めようとしたことを


 詞は、中国における韻文形式あるいは歌謡文芸の一つとされています。
詞調に合わせて詞が作られますが、詞調には特定の名称が決められており、これを詞牌と呼んでいます。詞の題名には詞牌が使われており、詩のような内容による題はつけられないきまりがありますが、その代わりに詞牌の下に詞題が添えられたり、小序が作られたようです。

 「沁園春」はこうした詞牌のひとつで、114字、双調(詞の段落が上下2つある形式)から成り立っています。
 したがって、詞牌が「沁園春」、詞題が「長沙」となるようですね。

 『沁園春 長沙』は毛澤東数え年33歳の作で、公表された作品の中ではこれが一番早く、「壮年期に達した作者が心中に決意するところがあって過去を追想し、自己の前半生に一種の総括を行っているので、今後の詩の世界の導入部の役割を果たしている」と竹内実氏はその著『毛沢東その詩と人生』で述べています。  続きを読む
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2011年07月09日

秋津嶋の旅(17)ー東山道(1)ー旧制松本高等学校

  

 あがたの森公園 旧制松本高等学校跡地  

 (旧暦6月9日)

 鴎外忌  明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、劇作家、陸軍軍医総監であった文豪森鴎外の大正11年(1922)年の忌日。

 遺言
 余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリコヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス
 大正十一年七月六日


 早稲田大学マニフェスト研究所の議会改革調査部会による議会改革度調査2010総合ランキングで日本一に輝いた松本市議会出張のついでに、若き日のあこがれの地、信州松本の旧制松本高等学校跡地を訪れました。

 旧制松本高等学校は、フランス文学者中島健蔵(1903〜1979)、文芸評論家唐木順三(1904〜1980)、小説家臼井吉見(1905〜1987)、フランス文学者辻邦生(1925〜1999)、小説家北杜夫(1927〜)などの錚々たる文学者を輩出していますが、私「嘉穂のフーケモン」が尊敬する東洋史学者で、『科挙』『九品官人法の研究』などの著作でも有名な宮﨑市定博士(1901〜1995)やトーマス・マンの翻訳で知られるドイツ文学者望月市恵先生(1901〜1991)の出身校でもあります。

 また、「ヒルさん」、「蛭公」の愛称で慕われた名物教授、蛭川幸茂先生(1904〜1999)が数学の教鞭を執っておられたことでも知られています。
 旧制高校と旧制高校生をこよなく愛し、陸上競技部の部長でもあった蛭川先生は、東京帝国大学理学部数学科を卒業してすぐの大正15年(1926)4月に松本高等学校に赴任していますが、松高赴任時は満22歳で、日本で一番若い旧制高等学校の先生であったそうです。そのために、32名もの年上の生徒が在籍していたそうですが・・・。

 「ヒルさん」のエピソードについては、北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』に詳しく描かれていますが、その一節に、

 蛭川幸茂というその先生は、生徒からヒルさん、或いはヒル公という愛称でしか呼ばれなかった。身なり風体をかまわぬこと生徒以上であった。伝説であろうが、松高に赴任してきたとき、物売りと間違えられ、受付で追い払われたと伝えられている。
 (中略)
 服装はもっとも悪い。荒縄を帯代りにして着物をしばっていたこともある。私もこの先生をはじめて見たときは乞食だと思った。ヒルさんは陸上競技部の部長であったから、校庭で砲丸を投げたり走ったりしている。乞食がなんであんな真似をしているのか、さすが高等学校というところは変った場所だと思った。ヒルさんはインターハイなどへ行っても、グラウンドでムシロをかぶって寝たりするので、頻々と乞食と間違えられた。

とあります。

 以前、中日新聞社にお勤めの蛭川先生のお孫さん(女性)が書かれた本があったかと思いますが、その本に載せられていた蛭川先生の容貌は、とても高等学校の先生とは思えないような、あえて言えば山賊のような容貌であったと記憶しています。

 北杜夫は、蛭川先生のことを「髭づらで容貌は野武士のごとくである。」と書いていますが、それは恩師だから遠慮したのであって、この先生が着物を荒縄でしばって現れると、本当に乞食か山賊としか思えない容貌でしたね。

 そういえば我らが農学校時代の応援団顧問の先生も、名物と云えば名物。
 北海道帝国大学予科最後の教授というのが自慢であり、その後新制北海道大学で長く統計学の教鞭を執られた「やまげん」こと山元周行先生に関しては、下記のような論文まであります。

 前略
 「統計学」の教科書は今で もときどき見ることがある。ご担当の山元周行先生の試験問題に解答できないときは、 「明治45年度恵迪寮歌 都ぞ弥生」の1番から5番までを漢字で書けば単位を下さる、という噂があったが、真偽のほどは確かめていない。
 静岡県立大学短期大学部 一般教育研究会誌(1)-2 (2001)
 『私の一般教育 My Liberal Arts』  原田 茂治 HARADA Shigeharu 
 
 (http://oshika.u-shizuoka-ken.ac.jp/faculties/liberal_arts/005/upimg/1_2_harada.pdf

 ちなみに、私「嘉穂のフーケモン」は山元先生にはお世話になりましたが、先生の「統計学」は受講していないので、やはり、真偽のほどは明らかではありませぬ。
 かつて、昭和の御代に北大創起百年記念祭があり、大学から大通り公園まで提灯行列を行いましたが、そのときに山元先生が、「いや〜○○君(私のこと)、札幌で提灯行列を行うのは南京陥落以来ですよ。」とおっしゃられたのを、昨日のことのように思い出します。
 南京陥落は昭和12年12月13日だったから、北大創起百年記念祭当時でも40年近く経っており、「先生はえらい昔のことをおっしゃるものだ。」と妙に感心したのが記憶に残っています。

 ところで山元先生は、『競争均衡分析における均衡存在定理』(Equilibrium existence theorems in competitive equilibrium analysis)という論文で理学部数学科の博士号を取られている偉い先生のようですが、酒を飲んで寮歌を歌っている姿しか見かけたことはありませんな。  続きを読む
Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:35Comments(0)TrackBack(0)秋津嶋の旅

2011年06月26日

板橋村ゆかりの人々(10)ー後藤新平(1)

 

 (旧暦5月25日)

 慶祝!500回達成。
 2004年11月の第1回投稿以来、苦節6年半。ついに目標の500回を達成しました。今後ともますますがんばりまっせ!
次の目標は1,000回ですが、何時になることやら・・・。

 さて、未曾有の大震災の復興に向けて、いま再び脚光を浴びているのが、台湾総督府民政長官、初代満鉄総裁、初代内閣鉄道院総裁、第7代東京市長を歴任し、関東大震災後には内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した後藤新平(1857〜1929)です。

 大正12年(1923)9月1日午前11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の大正関東地震による地震災害は、神奈川県を中心に千葉県、茨城県から静岡県東部までの内陸部と沿岸部の広い範囲に甚大な被害をもたらし、死者・行方不明10万5千余、家屋の全壊10万9千余棟、焼失家屋21万2000余棟にものぼり、日本災害史上最大級の大災害となりました。

 地震の8日前に病死していた加藤友三郎(1861〜1923)首相に代わって、外務大臣内田康哉(1865〜1936)が内閣総理大臣臨時兼任として内閣を運営しましたが、震災の翌日に第2次山本権兵衛(1852〜1933)内閣が発足、内務大臣に就任した後藤新平は宮中での親任式を終えて帰邸すると、直ちに奥二階日本間の一室に籠もって、次のような帝都復興根本策を固めたと伝えられています。

 1. 遷都スベカラズ。
 2. 復興費ニ30億円ヲ要スベシ。
 3. 欧米最新ノ都市計画ヲ採用シテ、我国ニ相応シキ新都ヲ造営セザルベカラズ。
 4. 新都市計画実施ノ為メニハ、地主ニ断乎タル態度ヲ取ラザルベカラズ。


 かつて大正7年(1918)、寺内内閣の内務大臣として都市計画調査会を設立して今日の都市計画法と建築基準法(市街地建築物法)の基礎を築き、大正9年(1920)からは第7代東京市長として東京市政要綱(八億円都市計画)を提起し、大正11年(1922)には東京市政調査会を設立して地方自治・都市問題に関する調査研究活動に着手させ、近代社会の根本となる都市の創造に向かって日本を導こうとしていた後藤にとって、震災による帝都復興事業は正に時宜にかなった使命であったと思われます。

 そして5日後の閣議に、「帝都復興ノ議」を提出しています。

 東京ハ帝国ノ首府ニシテ国家政治ノ中心、国民文化ノ淵源タリ。従テ其ノ復興ハ啻(ただ)ニ一都市ノ形態回復ノ問題ニ非ズシテ実ニ帝国ノ発展、国民生活改善ノ根基ヲ形成スルニ在リ。サレバ今次ノ震災ハ帝都ヲ化シテ焦土ト成シ、其ノ惨害言ウニ忍ビザルモノアリト雖モ、理想的帝都建設ノ為真ニ絶好ノ機会ナリ。此ノ機ニ際シ宜シク一大英断ヲ以テ帝都建設ノ大策ヲ確立シ之ガ実現ヲ期セザルベカラズ。躊躇逡巡此ノ好機ヲ逸センカ国家永遠ノ悔ヲ遺スニ至ルベシ。因(より)テ茲(ここ)ニ臨時帝都復興調査会ヲ設ケ、帝都復興ノ最高政策ヲ審議決定セシメントス。
 臨時帝都復興調査会ノ組織大要左ノ如シ。
  総裁  内閣総理大臣
  委員  一 国務大臣
      二 枢密院議長
      三 内閣総理大臣若ハ国務大臣タル礼遇を賜リタル者
      四 国務大臣タリシ者又ハ親任官中ヨリ勅命セラレタル者
      五 学識経験アル者ヨリ勅命セラレタル者
 帝都復興ノ大方針ヲ決定スルコト。即(すなわち)
  (イ) 復興ニ関スル特設官庁ノ新設
  (ロ) 復興ニ関スル経費支弁ノ方法
  (ハ) 罹災地域ニ於ケル土地整理策等
 此等ノ問題ニ関スル腹案左ノ如シ。
 (一) 帝都復興ノ計画及執行ノ事務ヲ掌(つかさど)ラシムル為メ新タニ独立ノ一機関ヲ設クルコト。其ノ組織大要左ノ如シ。
  (イ) 復興計画局
    一 都市ノ復興計画ニ関スル事務
    二 都市計画法ノ施行ニ関スル事務
  (ロ) 建築事務局
    一 諸官庁舎ノ建築ニ関スル事務
  (ハ) 建築監査局
    一 建築物法ノ施行ニ関スル事務
  (ニ) 土地整理局
    一 震災地域ノ土地整理ニ関スル事務
  (ホ) 救護局
    一 罹災民ニ対スル衣食救護ニ関スル事務
    二 家屋ノ建築並(ならび)ニ供給ニ関スル事務
  (ヘ) 財務局
    一 帝都建設ノ為メニ要スル経費其ノ他財務ニ関スル事務
 右ノ外(ほか)帝都復興計画調査会ヲ設ケ、復興計画ニ関スル当局ノ諮問機関トスルコト。其ノ組織大要左ノ如シ。
  会長
  委員 (一) 関係各省官吏
     (二) 関係地方長官
     (三) 関係市長
     (四) 学識経験者
 (二) 帝都復興ニ要スル経費ハ原則トシテ国費ヲ以テ支弁スルコト。而シテ之ニ充 
  当スル財源ハ長期ノ内外債ニ依ルコト。
 (三) 罹災地域ノ土地ハ公債ヲ発行シテ此ノ際之ヲ買収シ、以テ土地ノ整理ヲ実行 
  シタル上必要ニ応ジテ更ラニ適当公平ニ其ノ売却又ハ貸付ヲ為スコト。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 13:33Comments(0)TrackBack(0)板橋村ゆかりの人々

2011年06月24日

天文(14)−SN1006(1)

  

 SN 1006 Supernova Remnant

 (旧暦5月23日)

 『超新星』という言葉は天文用語かと思っておりましたら、今はやりの韓流6人組男性ダンスヴォーカルグループの名前でもあるそうで、いやはや、韓流人気はたいしたものですなあ!
 うちのオカンも、あの『チャングムの誓い』以来韓流ドラマにのめり込み、この頃は、フジテレビの『逆転の女王』の虜になっておりますがな。

 韓流の『超新星』は、メンバー全員の身長が180㎝以上というモデル並みのスタイルと、甘いマスクに加え、実力派のダンスと歌唱力で評価を得ている上に、今年6月には、東日本大震災における被災地でのプルコギの炊き出しを行うなどの支援活動を積極的に行っており、ジャニーズ事務所の『嵐』や『関ジャニ∞』よりもええですらあ。

 さて、天文学における超新星(supernova)は大質量の恒星がその一生を終えるときに起こす大規模な爆発現象とされていますが、西暦1006年に出現した超新星SN1006は、太陽と月を除くと記録に残されている限りでは歴史上で最も視等級(visual magnitude)が明るくなった天体(-7.5等級)であったようです。
 1006年4月30日から5月1日の夜におおかみ座(Lupus)の領域に出現したこの見慣れない星は、日本、中国北宋はもとより、スイス、エジプト、イラクの観察者によっても記録されています。

 1. 日本
  日本では寬弘3年旧暦4月2日に陰陽師安倍吉昌(955?〜1019)が観測し、200年以上経た後の寛喜2年(1230)に、鎌倉初期の歌人、京極中納言藤原定家(1162〜1241)がその日記である 『明月記』 第五十二巻 寛喜二年十一月八日(乙未)の条で、「客星(見慣れない星)出現例」を8例ばかり記した中に、1006年のSN 1006と思われる超新星について言及しています。

 一條院寛弘三年四月二日葵酉、夜以降騎官中有大客星、如螢惑。 光明動耀、連夜正見南方。或云、騎陣将軍星本体、増変光。

 一條院寛弘三年四月二日葵酉(きゆう)、夜以降、騎官(きかん)中に大客星有り、螢惑(けいこく)の如し。 光明動耀、連夜正しく南方に見(あらは)る。或は云ふ、騎陣将軍星の本体、変じて光を増すかと。

 第66代一条天皇(在位986〜1011)の寛弘三年(1006)四月二日(ユリウス暦5月1日)、夜半、騎官(おおかみ座の東部とケンタウルス座西部の一部分、氐宿を構成)中に大客星(大きな見慣れない星)が出現し、螢惑(火星)のようであった。光は煌煌と輝き、毎夜正しく南方に現れた。或いは騎陣将軍星(κ Lup)の本体が増光したのかとも云う。

 ここで古代中国の星図で騎官(星数10)とされた星々は、下記のようになります。
 騎官一(γ Lup) , 騎官二(δ Lup) , 騎官三(κ Cen ), 騎官四(β Lup), 騎官五(λ Lup)
 騎官六(ε Lup), 騎官七(μ Lup), 騎官八(π Lup), 騎官九(ο Lup), 騎官十(α Lup)

 

 古代中国の星座「騎官」と騎陣将軍星 「おおかみ座」の一部  続きを読む
Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:22Comments(0)TrackBack(0)天文

2011年06月16日

となり村名所あんない(33)−台東村(3)−子規庵

 
 子規庵表門

 (旧暦5月15日)

 台東村の根岸2丁目5番11号にある子規庵は、明治を代表する俳人、歌人である子規こと正岡常規(1867〜1902)が、明治27年(1894)2月に故郷松山より母八重(1845〜1927)と妹律(1870〜1941)を呼び寄せて移り住んだ場所として有名です。

 いつもの通りジョギングで、板橋村から王子、田端を経て、皇居へ向かう途中に立ち寄りました。 
 
 昭和27年(1952)に東京都文化史蹟に指定されて現在に至っている子規庵の建物は、財団法人子規庵保存会のHP(http://www.shikian.or.jp/)によれば、「旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれています。」とのことです。

 旧前田侯と云えば加賀藩102万5千石を領していた旧前田侯爵家だし、下屋敷と云えば板橋村の我らが下屋敷以外に考えられないし、「なに〜い!いったい、どないなってんねん!」と怒りを覚えつつも不明を恥じながら調べてみました。

 「根岸倶楽部」の立案及び国語学者大槻文彦博士(1847〜1928)の編集により、根岸の道しるべの図として明治34年(1901)に刊行された『東京下谷根岸及近傍圖』(東京都立中央図書館特別文庫室蔵)では、子規庵がある上根岸82番地は前田家と記載されていました。
 
 『東京下谷根岸及近傍圖』は、東京都立中央図書館では貸出不可、閲覧注意となっているため、わざわざ港村南麻布の有栖川宮記念公園内にある都立中央図書館特別文庫室まで確認に行きましたがな。

 この図には、現在の台東区根岸及び荒川区東日暮里4〜5丁目付近の旧地番と主な旧跡や店舗名等が記載されており、地図の余白には40の項目で旧跡や名物の解説を行っています。

 ここで「根岸倶楽部」とは、小説家、演劇評論家饗庭篁村(1855〜1922)、翻訳家森田思軒(1861〜1897)を中心に、演劇評論家幸堂得知(1843〜1913)、日本画家高橋應眞(1855〜1901)、児童文学者高橋太華(1863〜1947)、東京美術学校第2代校長岡倉天心(1863〜1913)、日本画家川崎千虎(1837〜1902)、随筆家中井錦城(1864〜1924)、小説家宮崎三昧(1859〜1919)、小説家幸田露伴(1867〜1947)、日本新聞社長陸羯南(1857〜1907)、小説家須藤南翠(1857〜1920)などの根岸に住む文人たちの集まりの総称で、根岸派、根岸党とも云われていました。

 また、日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者として著名な言語学者、帝国学士院会員大槻文彦博士(1847〜1928)は、明治17年(1884)に根岸に移り住み、明治34年(1901)に金杉258番地(現在の荒川区東日暮里四丁目21番地)に家を新築。その後、昭和3年(1928)に亡くなるまでここで暮らしています。

 荒川区日暮里、台東区根岸を中心に土地の歴史を、江戸時代から現代まですこしずつ掘り下げてゆき、その報告の場としているHP、『ディープに迫る!日暮里と根岸の里』http://nippori-negisi.seesaa.net/)では、下記のように解説しています。

 前田家(上根岸82)
 加賀前田侯爵家。本間家から明治初期に購入したもののようである。
 板塀にそふて飛び行く蛍哉   <子規 明治27>
 加賀様を大家に持って梅の花  <子規>


 なるほど、それならば納得。

 加賀藩の下屋敷は、我が板橋村以外にはありませんぞ! 文京村の上屋敷(東京大学)、何するものぞ!  続きを読む
Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:15Comments(0)TrackBack(0)となり村名所あんない

2011年06月05日

数学セミナー(26)ーシュヴァルツシルト解(2)

 
 
 Paul Adrien Maurice Dirac, OM(Order of Merit), FRS(Fellow of the Royal Society) ( 1902 – 1984) was an English theoretical physicist who made fundamental contributions to the early development of both quantum mechanics and quantum electrodynamics. He held the Lucasian Chair of Mathematics at the University of Cambridge and spent the last fourteen years of his life at Florida State University.
 Among other discoveries, he formulated the Dirac equation, which describes the behaviour of fermions, and predicted the existence of antimatter.
 Dirac shared the Nobel Prize in physics for 1933 with Erwin Schrödinger, "for the discovery of new productive forms of atomic theory.

 (旧暦5月4日)

 数学セミナー(25)ー相対性理論(11)ーシュヴァルツシルト解(1)のつづき。
 
 今年は、5月に梅雨入りするなど、大地震といい大津波といい、「まったく世の中、どないなってんねん」と嘆いております。

 しか〜し、おいどん「嘉穂のフーケモン」は、天変地異などには負けもさん! 「がんばっど、東北(とんぺい)!」

 といふ訳で、「おたく」の世界に戻ります。

 

 

 

 以前求めたクリストッフェルの3指標記号を用いると

 

 

 (2.1)と(2.2)を(2.3)に代入すると、計量テンソルのみたす方程式は下記(2.4)に得られます。

 

 

 

 

 

 ちょっとここらで一休み。目がチカチカしますな!


 

 

 

 

 はい、とりあえずこれでおしまい。他の式はすべて0となります。  続きを読む
Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:34Comments(0)TrackBack(0)数学セミナー

2011年05月22日

史記列傳(11)ー商君列傳第八

 

 (旧暦4月20日)
 
 鞅(あう)は衞を去りて秦に適(かな)ひ、能く其の術(すべ)を明らかにして、彊(し)いて孝公を霸たらしめ、後世其の法に遵(したが)ふ。よりて商君列伝第八を作る。

 商鞅(しょうおう)は衛を去つて秦に赴き、自分の学術を明らかにして、秦の孝公を覇者にし、後世その法は秦の模範とされた。そこで、商君列伝第八を作る。(太史公自序第七十:司馬遷の序文)

 商鞅(Shāng Yāng、B.C.390〜B.C.338)は、衞の公子の出身で、若くして刑名の学(実証的法治)を学び、魏の宰相公叔痤に仕えてその才能を認められ、その家の中庶子(公族を掌る官職)となりました。
 公叔痤は病を得て世を去るときに、魏の恵王(在位:B.C.369〜B.C.319)に鞅を推挙しましたが容れられず、「王がもし鞅を用いることを聴き容れないのなら、必ず鞅を殺して国境を出してはなりません。」と言い残しました。

 恵王は公叔痤が病のために判断を誤ったとして嘆息しますが、やがてこの予言は的中し、魏は秦の軍を率いた鞅のためにたびたび敗北し、徐々に領土を削られてゆきます。恵王は後に、公叔痤の言を用いなかったことを後悔することになります。

 鞅はその後、秦の孝公(在位:B.C.361〜B.C.331)の「招賢の令」に応えて秦に赴き、孝公に見えて「帝道」を説きますが孝公は興味を示しませんでした。
 五日後、もう一度引見の要請があり、孝公に見えて「王道」を説きますが、孝公はよくその真意を理解できません。
 鞅は重ねて孝公に面謁し、今度は「覇道」を説いて孝公に用いられることになります。

 孝公は、鞅を用いた後、その説くところに従って、鞅の富国強兵策を実施するために旧法を変え、制度と機構を改革したいと欲しましたが、世の人々が自分を批判することを恐れました。

 衞鞅曰、「疑行無名、疑事無功。且夫有高人之行者、固見非於世、有獨知之慮者、必見敖於民。愚者闇於成事、知者見於未萌。民不可與慮始、而可與樂成。論至德者不和於俗、成大功者不謀於眾。是以聖人苟可以彊國、不法其故、苟可以利民、不循其禮。」

 衞鞅曰く、「疑行は名無く、疑事は功無し。且つ夫れ人よりも高きの行ひ有る者は、固(もと)より世に非(そし)られ、獨知の慮(おもんばか)り有る者は、必ず民に敖(あなど)らる。愚者は成事にも闇(くら)く、知者は未萌にも見る。 民は與(とも)に始めを慮(はか)るべからずして、與(とも)に成るを樂しむべし。至德を論ずる者は俗に和せず、大功を成す者は眾(衆)に謀らず。是(ここ)を以て聖人は苟(いやし)くも以て國を彊(つよ)くすべくは、其の故に法(のつと)らず、苟(いやし)くも以て民を利すべくは、其の禮に循(したが)はず」と。
 
 衞鞅が云うには、「自信のない行動は人から評価されず、自信のない事業は功績をあげません。およそ人に優れた行いのある者は、本来世にそしられ、独創性、先見性のある者は、必ず民からののしられます。愚か者は事が既に成ってもまだ理解できませんが、知者は事の前兆すらあらわれないうちに予見します。民は計画に参加させるべきものではなく、成果をともに楽しませればよろしいのです。至徳を論ずる者は世俗とは話が合わず、大事業を成し遂げる者は大衆には謀りません。そこで聖人はもし国を強くできることであれば、その国の古いしきたりにのっとらず、もしその国民に利益を与えることであれば、その国の作法を守りません」と。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:23Comments(0)TrackBack(0)史記列傅

2011年05月18日

奥の細道、いなかの小道(12)ー笠嶋

 

 藤原実方 /菊池容斎『前賢故実』

 (旧暦4月16日)

 笠嶋は いづこ さ月のぬかり道

 奥の細道の旅も、おととしの暮れに、しのぶの里、佐藤庄司が旧跡を出たきり、いずこへとも知れず行方不明になっておりましたが、何とこの間、大地震や大津波がおこり、笠嶋の郡(名取)も武隈(岩沼)の松も津波に流されてしまったのではないでしょうかの?

 さて、芭蕉翁一行は、飯塚(飯坂温泉)のあやしき貧家の宿で、雨漏りや蚤・蚊の攻撃に眠ることができず、挙げ句の果てには、持病の胃けいれんなどで気を失うばかりに苦しみながら、旧暦五月三日の巳ノ上尅(午前9時半頃)、飯坂の里を旅立ちます。

 一行は、奥州街道と羽州街道の分岐点である桑折の宿を過ぎて、源平のその昔、文治五年奥州合戦の際に、奥州藤原氏の大将軍藤原国衡ら2万人が立て籠もって防戦した土塁蹟の一部である大木戸を越し、仙臺藩伊達家62万石の領地に入ります。
 当時の防御線は、阿津賀志山(現・厚樫山)南麓から阿武隈川に近い地点までの約4㎞間を二重の堀と三重の土塁で防御した堅固なものであったようです。

 八月七日 甲午 
  
 二品(源頼朝)陸奥の国伊達郡阿津賀志山の辺国見の駅に着御す。而るに半更に及び雷鳴す。御旅館霹靂有り。上下恐怖の思いを成すと。
 泰衡日来二品発向し給う事を聞き、阿津賀志山に於いて城壁を築き要害を固む。国見の宿と彼の山との中間に、俄に口五丈の堀を構え、逢隈河の流れを堰入れ柵す。
 異母兄西木戸の太郎国衡を以て大将軍と為し、金剛別当秀綱・その子下須房太郎秀方已下二万騎の軍兵を差し副ゆ。凡そ山内三里の間、健士充満す。
 しかのみならず苅田郡に於いてまた城郭を構え、名取・廣瀬両河に大縄を引き柵す。
 泰衡は国分原・鞭楯に陣す。また栗原・三迫・黒岩口・一野辺は、若九郎大夫・余平六已下の郎従を以て大将軍と為し、数千の勇士を差し置く。また田河の太郎行文・秋田の三郎致文を遣わし、出羽の国を警固すと。

 夜に入り、明暁泰衡の先陣を攻撃すべきの由、二品内々老軍等に仰せ合わさる。仍って重忠相具する所の疋夫八十人を召し、用意の鋤鍬を以て土石を運ばしめ、件の堀を塞ぐ。敢えて人馬の煩い有るべからず。思慮すでに神に通ずか。小山の七郎朝光御寝所の辺(近習たるに依って祇候す)を退き、兄朝政の郎従等を相具し、阿津賀志山に到る。意を先登に懸けるに依ってなり。
 『吾妻鏡』 文治五年(1189) 己酉


 さらに一行は奥州街道に沿って北上し、文治二年(1186)、源義経一行が平泉に落ちのびる際に馬の鐙を摺って通ったという伝説が残っている鐙摺という切り通し(白石市斎川)を越え、仙臺藩片倉氏18,000石の城下町白石を過ぎて(実際には宿泊している)、藤中将実方の墓に思いを寄せながらも、降り続く五月雨に道もぬかるみ、体も疲れきっていたため、遠くから眺めて通り過ぎています。

 二月十日 壬午
 前の伊豫の守義顕、日来所々に隠住し、度々追捕使の害を遁れをはんぬ。遂に伊勢・美濃等の国を経て奥州に赴く。これ陸奥の守秀衡入道が権勢を恃むに依ってなり。妻室男女を相具す。皆姿を山臥並びに児童等に仮ると。
『吾妻鏡』 文治三年(1187) 丁未


 ここで、「前の伊豫の守義顕」とは「九郎判官義経」のことで、『玉葉』の文治二年(1186)六月二日の条に「九郎義行」の名が突然現れ、鞍馬に潜伏しているとの報告があったとあり、『玉葉』文治二年(1186)十一月二十四日の条では、さらに義顕と改名するのが良いとあります。何れも兄頼朝の意向であり、朝廷からの沙汰であったようですが、そもそもは、藤氏長者にして後に摂政となる九条兼実が源中納言雅頼卿との雑談の中で、今は朝敵となった義経が、次男の左近衛中将良経と同じ呼び名であることを不快に思い、本来ならば義経が改名すべき所をあえて改めようとはしないので、今となっては良経の名を改める他ない云々と語ったことに端を発しています。

 [玉葉] 
 文治元年(1185) 乙巳 十一月十一日
 晩頭、雅頼卿来たり、世間の事等を談る。余三位中将改名の間の事を示し合わす。中将の名良経、九郎の名義経なり。良と義とその訓これ同じ。義経須く改名すべきなり。而るに敢えて以て改めず。然る間忽ち刑人に類し滅亡す。今に於いては、中将の改名異議に及ぶべからざるか。仍って内々その字を長光法師に問うの処、撰び申して云く、 良輔・経通と。輔字は九條殿の御名、経通公卿の名たりと雖も、彼の子孫無し。当時憚るべきに非ず。用いられ何事か有らんやと。

 [玉葉] 文治二年(1186) 丙午 六月二日
 申の刻、蔵人弁親経人を以て伝え申して云く、九郎義行鞍馬に在るの由、能保朝臣申す所なり。彼の山の寺僧圓豪、西塔院主法印實詮の許(一昨日の事と)に告げ送る。實詮能保に告ぐ。能保院に申す。而るに左右無く武士を遣わさば、一寺の摩滅なり。彼の寺の別当(入道関白息の禅師)に仰せ搦め進せしむべきか。

 [玉葉]  文治二年(1186) 丙午 十一月二十四日
  今日、義行改名の間の事、余案ずる所の名、義顕尤も宜しきの由、兼光申すなり。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:19Comments(0)TrackBack(0)おくの細道、いなかの小道

2011年05月14日

数学セミナー(25)ーシュヴァルツシルト解(1)

 

 Simulated view of a black hole in front of the Large Magellanic Cloud. The ratio between the black hole Schwarzschild radius and the observer distance to it is 1:9. Of note is the gravitational lensing effect known as an Einstein ring, which produces a set of two fairly bright and large but highly distorted images of the Cloud as compared to its actual angular size.
 
 (旧暦4月12日)

 天体物理学の世界で話題になっているブラックホール (black hole) とは、きわめて強い重力のために物質だけでなく光さえも脱出できない天体として20世紀前半の一般相対性理論(Allgemeine Relativitätstheorie)の確立により理論的に予言され、20世紀後半のX線天文学の台頭により宇宙におけるその存在が確かめられました。

 現在では、「ブラックホールとは、多量のガスやエネルギーを放出する天体」として認識されていますが、「光さえも脱出できない天体から何で多量のガスやエネルギーを放出できるんかいな?」という素朴な疑問がつきまとい、夜も眠れなくなってしまいます。

 1916年、アインシュタインは「一般相対性原理」と「等価原理」の二つの原理のもとに、リーマン幾何学(Riemannsche Geometrie)を用いて一般相対性理論(Allgemeine Relativitätstheorie)を構築しました。

 そしてその重力方程式を下記の様に導きました。
 
 

  face01一般相対性原理(Relativitätstheorie)
   物理法則は、すべての可能な座標系に対して同一の形式で成立する。
   Die Gesetze der Physik müssen so beschaffen sein, daß sie in bezug auf beliebig bewegte Bezugssysteme gelten.
 
  face02等価原理(Äquivalenzprinzip)
   すべての自然法則は、あらゆる座標系に対して成り立つような等式によって表現されるべきである。すなわち、任意の座標変換に対して共変(一般共変)な等式によって書き表されるべきである。
   Die allgemeinen Naturgesetze sind durch Gleichungen auszudrücken, die für alle Koordinatensysteme gelten, d.h. die beliebigen Substitutionen gegenüber kavariant (allgemein kovariant) sind.

 1916年、ドイツの物理学者、天体物理学者のカール・シュヴァルツシルト(Karl Schwarzschild、 1873~1916)は、球対称で自転せずかつ真空な時空を仮定してアインシュタインの重力方程式の厳密解を求めることに成功しました。
 40歳を超えていながら、第一次世界大戦でドイツ軍の砲兵技術将校として東部戦線に従軍中にアインシュタインの一般相対性理論を知り、戦地でその計算に取り組んでこの特殊解を導き出したと云われています。シュヴァルツシルトはその研究結果をアインシュタインに送りましたが、その半年後には天疱瘡(てんぽうそう、Pemphigus)という難治性の水疱性皮膚疾患で戦病死しています。

 彼が導き出した特殊解(シュヴァルツシルト解、Schwarzschild solution)は、重力が強く、光さえも抜け出せない時空の領域であるブラックホール(Schwarzes Loch )の存在を示唆していました。シュヴァルツシルト解には、その原点r=0に特異性があり、それがブラックホールであると認識されるようになったのは1960年代のことでした。

  ブラックホールという言葉を最初に用いたのは、プリンストン大学教授のジョン・A・ホイーラー(John Archibald Wheeler、1911〜2008)でした。
 彼は、1967年の秋にニューヨークで開かれたパルサー(パルス状の可視光線、電波、X線を発生する天体の総称)に関する会議で初めてその言葉を用い、同年12月のアメリカ科学振興協会(American Association for the Advancement of Science)で行った講演の中で再び用いています。

 The term "black hole" was coined by John Wheeler , being first used in his public lecture "Our Universe: the Known and Unknown" on 29 December, 1967.

 一方、真空中を定常的に回転する軸対称な時空を仮定したアインシュタインの重力方程式の厳密解は、1963年にニュージーランドの数学者ロイ・カー(Roy Patrick kerr、1934〜 )によって発見されました。

 そこで、回転していないブラックホールを「シュヴァルツシルト-ブラックホール」と呼び、回転しているブラックホールには「カー-ブラックホール」という名前がつけられています。
 この2種類のブラックホールが天体物理学の現場に登場するブラックホールで、現実に存在しうるブラックホールの解は、他にはないことが証明されているそうです。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:22Comments(0)TrackBack(0)数学セミナー

2011年05月08日

染井霊園(11)ー安岡正篤先生の墓


 
 安岡家の墓

 (旧暦 4月6日)

 昨今の自由民主党の凋落ぶりには目を覆うものがありますが、同党の派閥の一つである「宏池会」は、創設者の池田勇人(第58・59・60代内閣総理大臣、1899〜1965)以来、大平正芳(第68・69代内閣総理大臣、1910〜1980)、鈴木善幸(第70代内閣総理大臣、1911〜2004)、宮沢喜一(第78代内閣総理大臣、1919〜2007)と4人の総理・総裁を輩出し、自他共に保守本流の名門派閥と見なされてきました。
 
 この「宏池会」という名前は、後漢の儒学者馬融(Mǎ Róng、79〜166)の著した一文、「高光の榭(うてな)に休息し、以て宏池に臨む」『広成頌』から、陽明学者安岡正篤(まさひろ、1898〜1983)が命名したものであるとされています

 棲遟乎昭明之觀、休息乎高光之榭、以臨乎宏池。鎮以瑤臺、純以金堤、樹以蒱柳、被以綠莎、瀇瀁沆漭、錯紾槃委、天地虹洞、固無端涯、大明生東、月朔西陂。
 『後漢書/列傳/卷六十上 馬融列傳第五十上』


 安岡正篤(1898〜1981)は東洋哲学や陽明学の思想的指導者として、戦前は「金鶏学院」や「日本農士学校」を設立し、伝統的な日本主義を掲げて幅広い教育、啓蒙活動を行い、軍部や官界、財界にもその支持者を広げて行きました。戦時中には大東亜省(大日本帝国の委任統治領であった地域及び大東亜戦争に於いて占領した地域を統治するために置かれた省、昭和17年11月1日〜昭和20年8月)顧問として外交政策などにも関わっています。
 戦後は師友会を設立して、その東洋思想に基づく帝王学、指導者論などの著作や講演により「一世の師表」「天下の木鐸」と仰がれ、国家・社会の指導者層の精神的柱石、政・官・財界の指南役として重きをなし、またその出処進退の哲学などにより、「歴代総理の指南番」とも称されていました。

 安岡正篤とその教学は、昭和精神史を主導した中核的存在として位置づけられ、今後も多くの人びとの心の支えとして学び続けられるのではないかとも評されています。

  俳聖芭蕉(1644〜1694)は、古人先賢に学ぶことの大切さとその学ぶ姿勢について、南山大師(空海)の「書も亦古意に擬するを以て善と為す。古迹に似るを以て巧と為さず。」『遍照発揮性霊集』との詩文を引用して、その歌論を『許六離別の詞(柴門ノ辞)』に残していますが、安岡正篤の古人先賢に学ぶ姿勢も亦、古聖・先賢の「もとめたる所をもとめよ」という姿勢を貫いています。

 芭蕉は、最晩年の弟子である江州彦根藩士森川許六(1656〜1715)の彦根帰参にあたり、離別の詞として書き送った『許六離別の詞(柴門ノ辞)』の中で、許六の槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じた才能に並々ならぬ敬意を表しながらも、自己の歌論を述べ、俳諧文芸の神髄を語っています。

 

 許六離別の詞(柴門ノ辞)

 去年(こぞ)の秋、かりそめに面(おもて)をあはせ、ことし五月の初、深切に別れをおしむ。其のわかれにのぞみて、ひとひ草扉(そうひ)をたたいて、終日(ひねもす)閑談をなす。
 其の器(うつはもの)、画を好(このみ)、風雅を愛す。予、こころみにとふ事有。「画は何の為好(このむ)や」、「風雅の為好(このむ)」といへり。「風雅は何為愛すや」、「画の為愛(あいす)」といへり。其まなぶ事二にして、用をなす事一なり。まことや、「君子は多能を恥」と云れば、品ふたつにして用一なる事、可感(かんずべき)にや。画はとつて予が師とし、風雅はをしへて予が弟子となす。
 されども、師が画は精神微に入、筆端妙(たんみょう)をふるふ。其幽遠なる所、予が見る所にあらず。予が風雅は夏炉冬扇(かろとうせん)のごとし。衆にさかひて用(もちい)る所なし。ただ釈阿・西行のことばのみ、かりそめに云ちらされしあだなるたはぶれごとも、あはれなる所多し。後鳥羽上皇のかかせ給ひしものにも、「これらは歌に実(まこと)ありて、しかも悲しびをそふる」とのたまひ侍しとかや。
 されば、この御ことばを力として、其細き一筋をたどりうしなふ事なかれ。猶(なほ)「古人の跡をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ」と、南山大師の筆の道にも見えたり。風雅も又これに同じと云て、燈(ともしび)をかかげて、柴門(さいもん)の外に送りてわかるるのみ。
 
 元禄六孟夏末     風羅坊芭蕉
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:13Comments(0)TrackBack(0)染井霊園

2010年11月04日

北東アジア(37)-瀟湘八景

 
 漁村夕照図  伝・牧谿筆 (国宝 根津美術館蔵)

 (旧暦  9月28日)

 度支(たくし)員外郎、宋迪(そうてき)は畫(画)に工(たくみ)なり。尤(もつと)も平遠山水を善くす。其の意を得たる者に平沙雁落、遠浦帆歸、山市晴嵐、江天暮雪、洞庭秋月、瀟湘夜雨、煙寺晚鐘、漁村落照有り。之を八景と謂ふ。好事の者多く之を傳ふ。
 
 往歳、小窰村の陳用之、畫(画)を善くす。迪(てき)、其の畫(画)、山水を見て、用之に謂ひて日く、
 「汝は畫(画)、信(まこと)に工(たくみ)なり、但、天の趣少し。」
 用之其の言に深く伏して日く、
 「常に其の古人の者に及ばざるを患(うれ)ふ、正に此に在り。」 

 迪、日く、
 「此(これ)は難(かた)からず。汝先ず當(まさ)に一つの敗牆(壊れた土塀)を求め、絹素を訖(ことごとく)張り、之を敗牆(壊れた土塀)の上に倚(よ)りて、朝夕之を觀よ。之を觀ること既に久しく、素を隔て敗牆(壊れた土塀)の上に高平曲折を見るは、皆、山水の象と成る。
 心を目に存して想はば、高き者は山と為り、下の者は水と為り、坎(あな)は谷と為り、缺ける者は澗(かん、谷川)と為り、顯(あきら)かなる者は近と為り、晦(くら)き者は遠と為る。
 神領を意(こころ)に造り、避免(避ける)して然も其の人禽(人や鳥)、草木の飛動往來、這象の有るを見る。瞭然として目に在り。則ち意に隨ひて筆に命じ、默して以て神に會ふ。自然と境(画境)は皆天に就き、人の爲(い、行い)に類せず、是を活筆と謂ふ。」

 用之此れ自(よ)り畫格進む。

 『夢溪筆談卷十七 書畫』 嘉穂のフーケモン 拙訳


 北宋(960〜1127)の文人画家で度支(たくし)員外郎(正七品官の寄禄官)という官職にあった宋迪は絵がたくみで、とりわけ平遠山水(中国山水画の遠近法の様式の一つで、前景、中景、遠景の比率を大きくして、丘陵や平原の広さ、奥深さを強調しようとする構図)に秀でていた。その得意とするものに、
 平沙雁落、遠浦帆歸、山市晴嵐、江天暮雪
 洞庭秋月、瀟湘夜雨、烟寺晩鐘、漁村夕照
があって、これを八景といった。好事家は、多くこれを伝えている。
 
 何年か前のこと、小窰村の陳用之【第4代皇帝仁宗の天聖年間(1023〜1031)に画院祗候に任ぜられ、小窰鎮に住んでいた】は絵をよくした。
 迪はその山水画を見て用之に言った。
 「おまえの画は確かにたくみだ。ただ、自然の趣が欠けている。」
 用之はその言葉に深くひれ伏して言った。
 「常々古人に及ばないと悩んでいる点は、正にそこなのです。」
 
 迪は言った、
 「これは別に難しくはない。おまえはまず崩れた墻(ついじ)を探し、白絹を張ってそれにもたれかけさせ、朝な夕なに見つめるのだ。
 長い間見つめていると、白絹ごしに眺めた崩れた墻(ついじ)の上の高低曲折が、すっかり山水のかたちになる。

 高いところが山、低いところが水、落ちくぼんだところが谷、削れたところが澗(たにがわ)、はっきりしたところは近景、ぼんやりしたところは遠景と、心と目でしっかり覚え込むのだ。

 心の琴線に感じとり、人間や動物、草木がはっきりとあらわれ、しかと目に写ったならば、意のままに筆を走らせる。深く精神で会得すれば、自然に画境はすべて天の働きに近づき、人間業でなくなる。これを活筆というのだ。」

 用之はこののち、画の格調が日ましに上がった。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:00Comments(0)TrackBack(0)歴史/北東アジア

2010年09月05日

やまとうた(26)−野辺見れば なでしこの花咲きにけり

 
 カワラナデシコ (Dianthus superbus var. longicalycinus) 
 
 (旧暦  7月27日)
 
 野辺見れば なでしこの花咲きにけり わが待つ秋は近づくらしも

 野邊見者 瞿麥之花 咲家里 吾待秋者 近就良思母 (萬葉集 巻10-1972)
 
 今年の酷暑は異常とも言えますが、多くの皆さんも今年は例年以上に秋の訪れを心待ちにされていることでしょう。

 旧暦では7月(文月)は秋の季節の初めの月とされ、七夕は秋の季語となりますが、撫子(なでしこ)も秋の季語として取り扱われていますね。

 face05 学名 Dianthus superbus var. longicalycinus (河原撫子)
 face03 Dianthus : ナデシコ属
 face01 Dianthus(ダイアンサス)は、Modern Greekの「Dias(ギリシャ神話のゼウス神)+ anthos(花)」が語源
 face02 superbus : 気高い、堂々とした

 平安朝の女流作家、清少納言(966?〜1025?)も嬰麥(なでしこ)の花を愛でていますが、この花は当時の貴族にも愛玩されていたことがうかがえます。

 草の花は
嬰麥(なでしこ)、唐(から)のは更なり、やまとのもいとめでたし。女郎花(おみなへし)。桔梗。菊のところどころうつろひたる。刈萱(かるかや)。

 

 龍膽(りんどう)は枝ざしなどもむつかしげなれど、他花みな霜がれはてたるに、いとはなやかなる色あひにてさし出でたる、いとをかし。わざととりたてて、人めかすべきにもあらぬさまなれど、鴈來紅(かまつか)の花らうたげなり。名ぞうたてげなる。鴈(かり)の來る花と、文字には書きたる。雁緋(かにひ)の花、色は濃からねど、藤の花にいとよく似て、春と秋と咲く、をかしげなり。

 

 壼菫(つぼすみれ)、すみれ、同じやうの物ぞかし。老いていけば同じなど憂し。しもつけの花。夕顏は朝顏に似て、いひつづけたるもをかしかりぬべき花のすがたにて、にくき實のありさまこそいとくちをしけれ。などてさはた生ひ出でけん。ぬかつきなどいふもののやうにだにあれかし。されどなほ夕顏といふ名ばかりはをかし。

 葦の花、更に見どころなけれど、御幣(ごへい)などいはれたる、心ばへあらんと思ふにただならず。萌えしも薄(すすき)にはおとらねど、水のつらにてをかしうこそあらめと覺ゆ。これに薄を入れぬ、いとあやしと人いふめり。秋の野のおしなべたるをかしさは、薄にこそあれ。穗さきの蘇枋(すはう)にいと濃きが、朝霧にぬれてうち靡きたるは、さばかりの物やはある。

 

 秋の終ぞいと見所なき。いろいろに亂れ咲きたりし花の、かたもなく散りたる後、冬の末まで、頭いと白く、おほどれたるをも知らで、昔おもひいで顏になびきて、かひろぎ立てる人にこそいみじう似ためれ。よそふる事ありて、それをしもこそ哀ともおもふべけれ。萩はいと色ふかく、枝たをやかに咲きたるが、朝露にぬれてなよなよとひろごりふしたる、牡鹿の分きてたちならすらんも心ことなり。唐葵(からあふひ)はとりわきて見えねど、日の影に隨ひて傾くらんぞ、なべての草木の心とも覺えでをかしき。花の色は濃からねど、咲く山吹には山石榴(やまざくろ)も異なることなけれど、をりもてぞ見るとよまれたる、さすがにをかし。

 

 薔薇はちかくて、枝のさまなどはむつかしけれどをかし。雨など晴れゆきたる水のつら、黒木の階などのつらに、亂れ咲きたるゆふばえ。
 
 『枕草子』 三巻本 67段 「草の花は」
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:57Comments(0)TrackBack(0)やまとうた